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History, Strategy, Ideology, and Nations

労働担当大使の存在

2010年09月01日 | COLD WAR HISTORY
 各国の大使館や領事館には、大使を筆頭にして、大使館(領事館)員が詰めているが、
 米ソ冷戦の時代においては、労働担当大使(Labor Attache)と呼ばれる役職が置かれていた。
 労働担当といっても、大使館員の労働環境や雇用条件を統括・管理するものではなく、
 その主要な任務は、担当国における労働組合や労働運動のリーダーたちにコンタクトをとって、
 交流を図っておくことであった。

 国際政治において、他国の内政問題に介入することは同議的に許されないことである。
 冷戦時代であっても、それは基本的にかわるところはない。
 まして、同盟国や友好国に対して、何らかの政治的介入を行なったという事実が発覚すれば、
 重大な信義違反として、非難に晒されることを覚悟しなければならない。
 だが、デモクラシーを標榜し、選挙を通じた国民世論の表明によって、
 国家意思の形成や決定が左右される政治体制の場合、
 その国の政治指導者は、必ずしも独断的に意思決定できるものではなく、
 政治的安定を図るためには、国民世論の支持を得ることが必要となる。
 必然的に、自国の国益に反する姿勢を示す世論が他国において優勢であるならば、
 政治工作を仕掛ける対象もまた、その世論でなければならない。
 米国が労働担当大使を配置したのも、
 冷戦時代、労働運動が各国の世論形成に大きな影響力を持っていたからであり、
 ソ連・共産主義との政治戦という強い認識があったのである。

 通常、こうした工作活動については、冷戦史のエピソードとして言及されるけれども、
 政府文書を通じて、それを明らかにすることはなかなか難しかった。
 だが、比較的最近公開された国務省文書によると、
 オーストラリアで行なわれた工作活動の内容が把握できるようになってきた。

 明らかになったのは、1960年代後半、オーストラリアにおける米国労働担当大使の活動である。
 当時、オーストラリアには、3人の労働担当大使が配置されており、
 労働組合や労働運動のリーダーたちと接触を図る一方で、
 反共団体や反共指導者とも交流を深めて、政治情報の収集に力を注いでいた。
 そうして得られた情報は、本省やCIAに報告として上げられていたのだが、
 ここでの労働担当大使のもう一つの役割は、
 彼らが見込んだ労働運動のリーダーたちを米国に招待することであった。
 これは、ソ連が海外の労働運動のリーダーをよくモスクワに招待していることを真似したものであり、
 そうすることで、有能で使い勝手の良いエージェントを確保することが大きな狙いであった。
 そして、訪米するための費用は、CIAから資金援助が行なわれていたのである。
 実際のところ、工作活動の成果がどの程度、上がっていたのかは判然としない。
 しかし、少なくとも複数の人物がエージェントとして示されており、
 一定の成果はあったものと推測される。

 1960年代といえば、ちょうどアジアでは、ASEANが発足し、
 経済面での協力関係が深化していったと同時に、
 次第に政治的協議にも力点を移していこうという重要な時期に相当する。
 もちろん、オーストラリアは、ASEAN加盟国ではなかったが、
 域外の協力国として、米国や日本などとも連携する立場にあった。
 また、労働担当大使は、オーストラリアだけでなく、
 フィリピンやインドネシアといったアジア諸国にも配置されていたことが分かっているので、
 さらに視野を広げれば、米国の政治戦略を垣間見る一件と言えそうである。