今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

咸臨丸の日

2005-02-26 | 記念日
今日(2月26日)は「咸臨丸の日」
1860(安政7)年、幕府が派遣した使節団が、咸臨丸による37日間の太平洋横断航海を終えてサンフランシスコに到着した日である。
咸臨丸は1855年(安政2)年の黒船の来航に驚いた幕府が、1856(安政3)年、オランダに発注し、建造させた「蒸気帆船」である。日本の記録には「水掻捻子付(みずかきねじつき)蒸気船」とある。水掻捻はスクリューのことであり、スクリュー推進の蒸気エンジンを装備するとともに、バーク型の帆装も備えており、汽走と帆走を併用できるようになっていた船である。当時、蒸気船といえばまだ、船体の両側で水車を回して走る外輪船が普通であったので、この時期の造船技術からすると最新式の軍艦であった。
「咸臨丸」の名前の由来は、中国の『易経(えききょう)』の中にある『咸臨貞吉』という言葉からとって名付けられ、これには「君臣はお互いに親しみ厚く、情けあまねし」という意味があるそうだ。
幕末の日本人にとって日本からアメリカ大陸までの8000キロの荒波は気の遠くなるような距離を感じただろう。その太平洋に対する日本人の最初の挑戦が(安政7)年の幕府軍艦咸臨丸による太平洋横断航海であった。
長崎の海軍伝習所で日本人が近代航海術の訓練を開始してからわずか5年目のことである。咸臨丸をアメリカに派遣することを提議した勝海舟は、例え、彼が海軍の専門家であっても、近海の航海しかしたことのない彼が、咸臨丸を操作して太平洋を乗り切れる自身があったかどうかは疑問があり、これには、非常に政治的な動機があったのではないかといわれている。それは、一つには、海軍術を振興させるための目玉とすること。もう一つは日米関係を有利に導くために日本人の航海達成を示さなければならないということだろう。
1860年、日米修好通商条約の本書交換のために遣米使節を派遣することとなった。遣米使節団は、 アメリカの軍艦ボーハタン号に乗艦して渡米することとなったが、この時、使節警護の名目で海軍演習生によるはじめての遠洋航海の実地訓練を兼ねて、日本独自の船一隻を仕立てるべきだという意見がおこった。こうして、幕府軍艦・咸臨丸アメリカ渡航が決定したのである。
咸臨丸の総指揮には当たったのは、軍艦奉行の木村摂津守喜毅、艦長に勝麟太郎以下、士官・水夫併せて総勢96名が乗り組んだが、 その中に福沢諭吉、中浜万次郎(後のジョン万次郎)、などがいた。
サンフランシスコ到着は2月26日(陽暦3月17日)で、品川を出航してからの航海は、好天の日は数日しかなく、ほとんどが悪天候だったようで、波穏やかな近海の航海しか知らなかった日本人は遠洋航海の現実を始めて思い知らされる。よく咸臨丸の太平洋横断は勝海舟以下日本人だけで成し遂げた快挙のように言われており、勝海舟自身も「氷川清話」に、これは日本人がやったと大変威張って書いているらしいが、実際には、勝海舟は船酔いのために、航海中はずっと船室に閉じこもっていたそうである。後に分かったことだが、もし、この船に乗り込んでいたブルック率いるアメリカ海軍の将兵がいなければ咸臨丸はどこかで難破していたか、惨めな航海をしていただろうといわれている。兎に角、37日間の多難な航海を経て、無事サンフランシスコへ入港。全市をあげて咸臨丸一行は歓迎された。そして、復路は大きな嵐もなく無事5月5日、浦賀に入港している。
このサンフランシスコで目にした光景や、先進文明が大きな財産となり、勝海舟等から坂本龍馬など海援隊士に伝えられたことが、その後の彼等の行動力の原動力となったのである。
咸臨丸は、帰国後、小笠原諸島の開拓に派遣などの後、船の損傷・老朽が激しいため、建造から10年余りの1866(慶応2)年、蒸気機関を取り外し純帆船の輸送船となっていたようである。
その後、江戸幕府は滅亡。明治になって、新政府が出来たといっても、江戸時代の武士によって築かれた体制である。この新体制で居場所をなくした武士が続出し、その中に「榎本武楊」もいた。そして、これらの武士団は政府に反抗し、旧幕府の帆船数隻を乗っ取り、江戸から蝦夷へと脱出、その中に咸臨丸があった。しかし、途中 大時化に遭い、咸臨丸は船団を離れて清水へ漂流、仮泊していた。そこへ征討軍(新政府軍)が攻撃し、咸臨丸の兵は殺され、その屍は数日間も海上を漂っていたが、新政府軍に憚って放置されていた。このとき犠牲者の遺体を収集し、新政府軍の咎めを恐れず丁重に葬ったのが清水の侠客・次郎長である。
余談であるが、清水には今も「壮士の墓」がある。その墓碑銘は山岡鉄舟の筆になる。先日このBlogde「清水次郎長が賭博で逮捕された日」でも書いたように、次郎長は、このときのことが、きっかけで、山岡鉄舟や勝海舟、榎本武楊などと交流が出来る。そして、やくざの世界から世の中のために働くようになっていく。
一方、官軍に捕獲された咸臨丸は、大蔵省所管となり、翌1869(明治2)年、北海道開拓使の手に移り物資の輸送に従事。さらに回漕業者の元に払い下げられ、北海道の物産輸送に活躍したが、1871(明治4)年9月、仙台からの移民団を輸送中、函館湾沖で暴風雨に遭い沈没、と北海道誌は伝えている。
復元した咸臨丸が長崎のハウステンボスにあった。このハウステンボスでPR用に活躍していた。その復元咸臨丸もリース契約を解除され、ハウステンボスからなくなると聞いたが、今はどうなっているのだろう・・・。
(画像は、HTBの復元咸臨丸)


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4 コメント

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勝海舟 (Linda)
2005-02-26 18:37:41
よーさん、こんばんは。

人間誰しもエエ格好しいやとは思いますが、船酔いで船室に閉じこもっていた勝海舟の発言はかなり酷いエエ格好しいですね。
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福沢諭吉も (よーさん)
2005-02-27 13:25:44
本当に、偉い人もいい加減なものですね~

同船していた、福沢諭吉も同じように、日本人だけで航海していたようなこといってたんですよ・・・

その後、勝が出世すると、勝の言っていたことをばらすようなことをしたり・・・勝と福沢諭吉は仲が悪かったようです。
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歴史の裏事情・・・・ (けぃみ)
2005-02-27 19:33:08
・・・・こちらに精通なさっているよーさんのコラムは楽しいですわ^▽^*

このようにお教えくださったらもう少し歴史を興味深くお勉強していたかもしれませんわ^^

しかし裏事情はどぉあれこの偉業成し遂げられました役割大きゅうございましわね(微笑)
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偉業 (よーさん)
2005-02-28 16:41:35
そうですね~、この経験は大きいです。
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