秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

思い出の駄菓子。

2010年11月20日 10時34分36秒 | Weblog
私の子供のころ、京都にも駄菓子屋がたくさん営業していたもんです。町内に一軒はあった
と思います。ほとんどお年寄りか主婦が店主でしたね。

駄菓子屋、といっても菓子より(菓子のことを「おかしん」と言ってたけど、これは京都弁
なんだろうか?)メンコやビー玉(ビーダン)などの遊戯類が半分以上売り場を占めてました。

置いてある菓子類も、今なら絶対販売できないような怪しげというか、体に悪そうなのがありましたネ。

そういった店とは別に純粋に菓子類だけを販売している店もあって、これも駄菓子屋とよん
でいたと思います。ガラス蓋を開けてスコップで菓子をすくって販売するタイプの店です。

こちらは玩具系の駄菓子屋と違ってメーカー品のチョコレートやキャラメルも置かれていま
したが、私たちみたいな庶民のコセガレには遠足のとき以外はあまり縁がありませんでしたナ。

なんでこんな話をしているかというと、昨日店でMちゃんと駄菓子の話をしていたんです。
彼女と私は年齢は一回り違います。

ですから、私の子供時分にあった駄菓子も、彼女の子供のころには廃盤になっている可能性
があります。でも話をしているとけっこう残っていたんですよね。

たとえばパイプ型のチョコレート。ビニール系のパイプに半液体状のチョコが注入されて
いる、今思えばちょっと不気味なお菓子。こんなのも長生きしてたんダ・・・。

彼女はこれを思い切り啜りこんでよくむせたそうです。うん、今の彼女をみていても納得
できるぞ。

でもコレは夏場と冬場によって硬度が変わるから、搾り出し派も注意しないと、衣類にチョコ
をべっとり付けて母親に大目玉をくらう、という危険性をはらんでいましたね。

シガレットタイプの駄菓子は今でも販売されていますが、パイプチョコはどうなんだろう?
チカゴロでは懐かしの駄菓子コーナーがスーパーなどで設けられているから探索してみるか。

体に悪そうな駄菓子を口に、路地を駆け巡っていた頃の遺物。月光仮面ってこんなに眉毛が
太かったっけ?あの当時はほとんど無許可でグッズが製作販売されていたそうです。製作
側も宣伝になるから、まぁいいかと黙認していたとか。のんびりした時代でした。↓
     

こんな小さな仮面をかぶって遊んでたのか・・・。今なら顔の半分ほどしか隠せないぞ。
え、それはワタクシの顔面が大きくなりすぎたから?ほっといてんか!




ボージョレ解禁。

2010年11月18日 09時51分03秒 | グルメなのか?
店の仕入先の酒屋さんに今年のボージョレはどうでしょう?と聞かれて「う~ん、ウチで
ワイン飲むお客さんはそんなにいないしなぁ・・」と返事したんですけどネ。

去年もそういってお断りしました。けど、なんとなく彼の目を見たら「何とか一本だけでも」
と訴えているではないですか。きっとメーカーから割り当てられているんでしょうね。

去年はともかく、なんとか常連さんもできたことだし、皆さんに声かけてみますか、って
コトで2本だけ注文。いつも無理きいてもらっているしなぁ・・・・。

さっそく昨日配達してくれました。ホントは18日っていってたと思うけど、気が変わらない
うちにと急いでもってきたのかも?

ディスカウント店の進出で小売屋さんも大変です。ホントはディスカウント店で購入すれば
半分くらいの値で仕入れできると思うけど、そこはお付き合いです。(2本くらいでエラそう
なこといえませんけどね)

手前の3本はJちゃんの出雲土産です。ついでに今日開けてしまおう。今日だけ「はまちゃん」
の料理はイタリアン。(フレンチは無理だし・・・。)

今朝の朝食はナゼかお赤飯。別にボージョレ解禁を祝ってのコトではありません。昨日T社長
が「棟上」の帰りにお土産に持ってきてくれたんです。相方と赤飯に合うオカズって何だろ?
って話になったんですけどね。鯛のお頭付き?まさか朝から鯛は食べないよなぁ・・・。

結局ナゼか奈良漬けに落ち着いたんですけど、どうしてなのか二人ともわからない。
瓜だと思って買ったつもりが胡瓜でした。でもコレはコレでいけましたョ。

烏寺。

2010年11月17日 10時15分56秒 | 京都非観光迷所案内
この前、豊国神社で紹介した耳塚の前にあるのがこの烏(カラス)寺です。正式名は「熊谷
山専定寺」、禅林派のお寺です。一応説明板はあるけど、はげちょびて読みツライ・・・。  
簡単に述べさせてもらうと、昔(承元2・1208年)専定というお坊さんがこのあたりの松の
木陰で一休みしてはりました。

すると頭上で2羽の烏が「今日は蓮生坊(熊谷次郎直実)の極楽往生の日やし、お見送りに
いきまひょか」と喋りながら南のほうへ飛んでいったそうです。
   
これは不思議なことよ、と専定さんはこの地に庵を建てたとか。寺内には灯明の灰や油で
ねった烏が安置されているそうですが、私は確認してませんけどネ。(え~かげんな事で
すんません)

でも、「いい加減」、というのは、程よい加減ということで、何事も余り突き詰めては角が
たちますから、世の中、「いい加減」ぐらいで良いのです。(苦しい言い訳にも聞こえるケド)

またこの寺の地蔵は獅子地蔵とよばれています。これは寺町三条に住んでいた伏見左近とい
うおっちゃんが、江戸へ行く途中大井川に差し掛かかりました。

ところが大雨が続き、川は濁流と化しておりました。よせばいいのに少しでも早く江戸へ行き
たかった左近さん、ざぶんと川に飛び込んだ。(無茶しよんなぁ)

案の定、氾濫する濁流にのまれて、三途の川まで流されそうになったとき、どこからか獅子
があらわれて左近さんを乗せて対岸へ。

これは日ごろから信仰している烏寺のお地蔵さんに違いない、と左近さんが言ったかどうか
は知らないけど、そんな言い伝えが残されています。

烏といい、獅子といい、動物に縁のあるお寺ですね。

近所の扇屋さんで見つけたナマ「隣の人間国宝」さんのステッカー。関西ローカルの午前中
の番組ですが、実はワタクシ毎日観ております・・・・。
   


どうなる?伝統工芸。

2010年11月16日 10時09分25秒 | 着物話
近所にお住まいのY子さん、ご主人は着物作家です。義父も12代続く友禅作家で、私もよく
存じあげてます。と、いうか業界で知らない人間はいないと思うけど。

昨日の夕方、一人でご来店。ご主人の工房の仕入れや支払い業務をこなしてはりますが、
飲みながらのお話は、どうしても業界の先行きというか現状の話になっちゃいます。

なんせ、日本だけでなく、世界的にも有名な義父さんですから、ワタクシごときのレベルで
お話するのもおこがましいんですけどね。

息子さん(ようするに旦那さんです)は別会社で製作されていますから、現在の着物業界
の状況は私が思っている感覚に近いものを感じておられると思えます。

戦後、自国の伝統文化をここまで否定してしまった民族は、いったいドコへいくんダロ?

最近では和柄ブームで少し見直されている部分もあるけど、一過性の流行で終わらなければ
いいんですけどね。

↓これは紋紙(摺り友禅に使用)を使った照明器具です。先日リサーチパークで目にとまりました。


こちらは右京図書館(サンサ右京)で展示されていた京友禅の技法やデザインを使った食器。↓
 
伝統工芸の技法は一旦途絶えてしまうと復活さすために大変な労力が必要とされます。

便利さだけを追い求めた結果が今の日本国の現状です。

淘汰されていくのも時代の流れといえばしかたないけど、ニホン人の心のよりどころも
ちっとは残しておかないと寂しいのではないか?と、ワタクシ思いますケド・・・。





祇園界隈。

2010年11月15日 15時17分18秒 | 京都非観光迷所案内
相方の催事中、祇園まで車で送っていたもんで、ついでに界隈の風景を撮影してきました。
(駐車場に入れてまでのこともないから、ほんの通りすがりの写真ですけどね)

このコーン、普通なら赤なんだけど、さすがは祇園です。しかも駐禁のステッカーは千社札。
      
色を変えても祇園町にはふさわしくない物ですけど、これは歌舞練場の隣にJRAの場外馬券
売り場があるため、土日に限り置かれているようです。

ふさわしくない、といえば場外馬券売り場自体がふさわしくないんですけどネ。よくまぁ認可
されたもんだと思います。


↑祇園町で飲むと必ずこの塀にオシッコしていたのが司馬遼太郎先生。(と、いう話を読んだ
ことがあります。)なんだかエエ話やなぁ、と思うのはワタクシくらいか・・・。
 
  

        

この魔利支天(京都では「まるしてん」と呼ばれたりしてます)も建仁寺塔頭の一つです。
なんだか勇ましいです、この猪。他にも豚にもみえそうなのもいましたけど。
  

         
これもいわゆる「ゆるキャラ」ってやつですか。京都市よ、お前もかっ!

豊国神社の亡霊。

2010年11月14日 10時08分57秒 | 京都非観光迷所案内
豊国神社の場所も知っているし、何度も前は通過しているんですけど、ちゃんと訪ねたこと
はないんです。(そんな所はたくさんあるんですけどね。)

これは私に限らず、たいていの京都人はそうだと思います。地元民以外で豊臣家につながる
家系ならともかく、わざわざ交通機関を利用してまで参詣する人はほとんどいないでしょう。

 
太閤さんといえば、やはり「瓢箪」です。余談ですが足軽時代に自分の衣服に白餅(城持ち)
の紋を入れたところ信長が不機嫌になったから秀吉は慌てて黒餅(石持ち)に変えたとか。

石持ちってことは、サラリーマンとして社長(信長)に一生ついていきますという意思表示
ですナ。ホントかどうかはともかく世渡り上手さ、をしのばせるエピソードです。

 

北隣の方広寺にある豊臣家滅亡のきっかけになったと言われる大梵鐘。↓大鐘の内部に浮かぶ
雲状のものは淀君の霊といわれています。淀さんにすれば怨み度100%の梵鐘ですからね。
 

       
秀吉最後の大愚行?の遺跡「耳塚」。実際は耳じゃなく鼻だったという説もあるけど、どち
らにせよオロカなことをしたものです。

まだ国宝の唐門など見所はありますけど、それは他の観光案内にお任せするとしましょう。
私が会いたかった?のは、この巨石たちです。↓
       
秀吉は大岩の上に遊女を乗せ、笛や太鼓を打ち鳴らし、金の帷子をまといこれを迎えたそう
です。派で好きの秀吉の絶頂期でありますな。(写真の岩ではありませんけど)

また方広寺の大仏(何度も崩壊消失しています)殿の石垣は白川(左京区)の奥から毎日
5千人を使役して2000日ががりで築いた、とも記されています。

その後豊臣家も滅亡、時代は流れた慶長9(1604年)8月15日の事。

都では風流踊りが大流行。老若男女をとわず人々は歌い、踊りつつさんざめいていました。

と、あるいっかくだけが水をうったような静けさとなり、人ごみがさっと別れたその間を
静々と鳴り物もなく一団の男女たちが進んでまいりした。

女は辻ケ花、男は縫い絞り小紋の豪華な衣装を身にまとっていますが、その顔色は死人の
ごとく真っ青。やがてその一団は吸い込まれるように大石垣に消えていきました。

消えた大石の前には女人被衣とせし金襴が落ちていた。と、浄観記に書き残されているのですが
、これを読んだときに私の頭の中で映画の一シーンのような映像が浮かび上がりました。

今回はその大岩を見たいってコトだけでこの社を訪ねたんですけどネ。我ながら物好きな
ことであります。

※厳密にいえば、豊国神社ではなくて、方広寺の亡霊なんですけど、現在では方広寺より、
豊国神社のほうが分かりやすいので豊国神社、とさせていただきました。

綱敷行衛天満宮。

2010年11月13日 10時47分14秒 | 京都非観光迷所案内
全国に天神の数はほぼ1万あるといわれます。このブログでも京都市内の天神さんを数箇所
紹介せてもらっていますね。北野と吉祥院以外はこじんまりした社がほとんどです。
     
天神=菅原道真というのが一般的な認識ですが、もとはカミが鳴る、イナ・ビカリ→稲の稔
りを表す雷神を祀っていたそうです。雷神と道真の関係は前以前に書いたから今回は省略。

こちらの天神さんはえらい長い名前ですけど、それは「綱敷天満宮」と「行衛天満宮」を合祀
したため。綱敷の由来は道真が筑紫に左遷され、上陸した折に船の綱を御座としたそうです。
     
すると一夜にして総白髪となってしまったんですと。それほど悔しい思いをされた、って
ことですかな。その道真の像を画にして「一夜白髪」の御影とよび、祭ったから「綱敷天満宮」
の名がついたともいわれます。(別説もアリ)

他の地区の綱敷天満宮(神戸、九州など)の言い伝えとは若干違いがありますが、これは
京の都で起こった事件ですから、怨みツラミを絡めたほうがリアル感が出るので「一夜白髪
説」が生まれたのかもしれませんね。(いつものごとく私の勝手な解釈ですけど)

行衛は吉祥院にあった道真の屋敷から北野天満宮の南門につながる道の「西靸負(ゆきえ)
小路」に面していたことからそうよばれていたそうです。この道は北野天満宮の南門から
吉祥院天満宮に通じる道で道真はこの道を利用して吉祥院に通ったと、説明書きに記されています。

吉祥院はともかく、道真生存中に北野天満宮に通う理由があったっけ?北野に祭祀されたの
は氏が没してからずい分経てからだしなぁ。

二つの社を合体させたから、道真と無理やり結びつけたって気もするけど、なにかしらの
根拠があったのかも知れませんネ。(いつものごとく無責任なまとめですんまへん。)

由緒、地図はコチラ↓
http://www.kamimoude.org/jinjya/kyoto-city/shimogyou/si-amishi/index.html

本文とは無関係な写真↓。相方は昨日から3日間、祇園歌舞練場で催事。ゴクローさんです。

で、店はワタクシの一人営業。これまたゴクローさん。いつから休んでいないのか?って事
はもう考えないことにしたもんネ。「私の辞書には休業の文字は無い!!」

平安貴族のくらしと文化展示館。

2010年11月12日 10時03分12秒 | 京都非観光迷所案内
以前リサーチパークを訪ねた折にこの展示館の所在を知ったのですが、あの時は時間が無く
て訪館できなかったんですよね。

てっきり建物の内部の一角を利用していると思ってたら、こんな独立した建物だったんだ。
ですから、通常は施錠されていますから、2号館の受付でお願いして鍵を開けてもらいます。
      

↓広いよな~。当時の上級貴族の屋敷の平均的規模は一町が基準とされていたそうです。
この屋敷はどんな身分の平安貴族が暮らしていたんだろう?(一町=120m四方)
     
時代によっても変わりますが、上級貴族の屋敷は上京(当時の)に集中していたそうですが、
この地も東、西市場に近いという便利さがあるから、利用価値の高い場所ではあったと思います。

このリサーチパーク建設工事の際、敷地内に平安時代の貴族の屋敷跡が発見されて、7ヶ月
をかけて発掘されたそうです。これはリサーチパークだから許された日数ですね。
     
一般の工事ならそんなに工期は延長できませんからね。これは「京都アスニー」の遺跡にも
いえることです。アスニーはまたいつか紹介するつもりです。
←柱の根元

      

       
発掘された食器類。説明書によると当時の食器は一度に廃棄されることが多かったそうです。
それらは日常用ではなく、宴会時のものとか。なんて贅沢してたんだ。

アスニーでは平安京全体を鳥瞰できますが、こちらはその一部をさらに見ることができます
から、平安時代にタイムスリップしたい人には両方鑑賞することをお勧めします。

なんて、そんなモノ好きな人は少ないと思いますけどね。アスニーも知る人は少ないけど、
こちらはさらにマイナーな展示館ですから。だから迷所案内なんですけどネ。

詳しい情報はコチラ↓
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=5000159

立ち食い蕎麦は好きです。

2010年11月11日 09時39分35秒 | グルメなのか?
立ち食い蕎麦が好き、なんて言ってしまうと「蕎麦ツウ界」からの脱落を宣言したようなもので
すが、もとからツウを目指してないし、なりたいと思ったこともないから、いいのです。

阪急電鉄沿線には「阪急そば」というチェーン店が点在していますが、こちらは「都そば」
です。私にとっては阪急西院駅にあるからここも「阪急そば」って呼んでました。
     
それで文句言われたことないし、いいんですけどね。正確には「都そば」は立ち食いで
「阪急そば」はテーブル席が主みたいです。系列も違うと思うけど、ま、いいかぁ。

小学生の頃、たまの土曜日にこの西院店でウドンを食べるのが楽しみだったなぁ。

昼食代は限られていたので、素ウドンを二杯たべるか、ちょっと贅沢に月見にするか・・?
あのころ小さな(そんなに小さくなかったか)ムネを悩ませたもんです。

5人も入ればほぼ満席の広さ。あのころもこんなに小さかったっけ?確実にいえる事は当時
はちょうど位のカウンターの高さが、今は背を屈めて食べないといけない。
     
これは店が縮んだんじゃなくてワタクシの身長が伸びたんですけどネ。(当たり前じゃ!)

若い頃は「天麩羅&玉子」の「スタミナそば」をよく食べたっけ。玉子が入っているから
「スタミナ」だと思うけど玉子=スタミナという発想は今の人には思いつかないだろなぁ。

チカゴロはもっぱらこの「天そば」(290円)です。このダンボールみたいな天麩羅が
またいいんだよなぁ。(「天麩羅ツウ界」からも脱落してます、ワタクシ。)
     
この店でも「掻き揚げそば」が販売されるようになったけど、私はもっぱらコレ。

このダンボール、いや天麩羅がツユで全部ふやけてしまう前に完食すべし、ってのがワタクシ
のコダワリであります。どーでもいいコダワリですけどネ・・・・。