河原町と通りと新京極通りの間にあるのが、「裏寺」(裏寺町通り)。
名前のとおり、小さなお寺が沢山並んでます。
この「誓願寺」はそのなかでは比較的大きなお寺になります。
で、今回ナゼにこのお寺を紹介したか、と言いますと、このお寺に内臓入りの
仏像があったそうなんです。
話は宝暦4年(1754)、この寺の近くで日本初の人体解剖が行われました。
誓願寺からすこし北へ歩くと、その事を示す碑が建てられています。↑
解剖にあたったのは山脇東洋。その先生がある夜眠っていると、亡霊が現れ、
無実の罪で処刑されたうえに、五臓六腑まで取られて、成仏できまへん、と
訴えたとか。
そこで先生は誓願寺に相談、内臓を内蔵?した阿弥陀如来を造ってこの寺に納
めたという話です。
残念ながら、蛤御門の変(1864年)で誓願寺も消失、仏像も灰と化した、という話。
江戸時代の人体解剖、といえば杉田玄白の「ターヘル・アナトミア」を思い浮かべ
ますが、解体新書が発刊されたのは1774年ですから、それ以前の話になりますね。
人体解剖はその後も行われていたらしく、寛政11年(1799年)、「解体琑言」という
書が発刊されています。医師は眼科医の柚木太淳、挿絵は祇園の井特、と記録されています。
しかし、なぜ江戸でなく、京だったんでしょうね。江戸は将軍様のお膝元、当事
の御殿医は漢方医がはばをきかせていたんで、※京が選ばれたのでしょうか?
難しい事は歴史学者にお任せするとして、人の腑分け、という行為自体がとてつもない
事だったでしょう。そのあたりの風当たりを考えて如来像を奉納したのかも知れ
ませんね。
現存していたら一度拝観したかったなぁ・・・・。
※後述 東洋の門人小杉玄適と伊藤友信は小浜藩、酒井忠用の家臣で、忠用は
当時の京都所司代であった。「それは京都ではじまった」黒田正子 光村推古書院
名前のとおり、小さなお寺が沢山並んでます。
この「誓願寺」はそのなかでは比較的大きなお寺になります。
で、今回ナゼにこのお寺を紹介したか、と言いますと、このお寺に内臓入りの
仏像があったそうなんです。
話は宝暦4年(1754)、この寺の近くで日本初の人体解剖が行われました。
誓願寺からすこし北へ歩くと、その事を示す碑が建てられています。↑
解剖にあたったのは山脇東洋。その先生がある夜眠っていると、亡霊が現れ、
無実の罪で処刑されたうえに、五臓六腑まで取られて、成仏できまへん、と
訴えたとか。
そこで先生は誓願寺に相談、内臓を内蔵?した阿弥陀如来を造ってこの寺に納
めたという話です。
残念ながら、蛤御門の変(1864年)で誓願寺も消失、仏像も灰と化した、という話。
江戸時代の人体解剖、といえば杉田玄白の「ターヘル・アナトミア」を思い浮かべ
ますが、解体新書が発刊されたのは1774年ですから、それ以前の話になりますね。
人体解剖はその後も行われていたらしく、寛政11年(1799年)、「解体琑言」という
書が発刊されています。医師は眼科医の柚木太淳、挿絵は祇園の井特、と記録されています。
しかし、なぜ江戸でなく、京だったんでしょうね。江戸は将軍様のお膝元、当事
の御殿医は漢方医がはばをきかせていたんで、※京が選ばれたのでしょうか?
難しい事は歴史学者にお任せするとして、人の腑分け、という行為自体がとてつもない
事だったでしょう。そのあたりの風当たりを考えて如来像を奉納したのかも知れ
ませんね。
現存していたら一度拝観したかったなぁ・・・・。
※後述 東洋の門人小杉玄適と伊藤友信は小浜藩、酒井忠用の家臣で、忠用は
当時の京都所司代であった。「それは京都ではじまった」黒田正子 光村推古書院
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