秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

豊国神社の亡霊。

2010年11月14日 10時08分57秒 | 京都非観光迷所案内
豊国神社の場所も知っているし、何度も前は通過しているんですけど、ちゃんと訪ねたこと
はないんです。(そんな所はたくさんあるんですけどね。)

これは私に限らず、たいていの京都人はそうだと思います。地元民以外で豊臣家につながる
家系ならともかく、わざわざ交通機関を利用してまで参詣する人はほとんどいないでしょう。

 
太閤さんといえば、やはり「瓢箪」です。余談ですが足軽時代に自分の衣服に白餅(城持ち)
の紋を入れたところ信長が不機嫌になったから秀吉は慌てて黒餅(石持ち)に変えたとか。

石持ちってことは、サラリーマンとして社長(信長)に一生ついていきますという意思表示
ですナ。ホントかどうかはともかく世渡り上手さ、をしのばせるエピソードです。

 

北隣の方広寺にある豊臣家滅亡のきっかけになったと言われる大梵鐘。↓大鐘の内部に浮かぶ
雲状のものは淀君の霊といわれています。淀さんにすれば怨み度100%の梵鐘ですからね。
 

       
秀吉最後の大愚行?の遺跡「耳塚」。実際は耳じゃなく鼻だったという説もあるけど、どち
らにせよオロカなことをしたものです。

まだ国宝の唐門など見所はありますけど、それは他の観光案内にお任せするとしましょう。
私が会いたかった?のは、この巨石たちです。↓
       
秀吉は大岩の上に遊女を乗せ、笛や太鼓を打ち鳴らし、金の帷子をまといこれを迎えたそう
です。派で好きの秀吉の絶頂期でありますな。(写真の岩ではありませんけど)

また方広寺の大仏(何度も崩壊消失しています)殿の石垣は白川(左京区)の奥から毎日
5千人を使役して2000日ががりで築いた、とも記されています。

その後豊臣家も滅亡、時代は流れた慶長9(1604年)8月15日の事。

都では風流踊りが大流行。老若男女をとわず人々は歌い、踊りつつさんざめいていました。

と、あるいっかくだけが水をうったような静けさとなり、人ごみがさっと別れたその間を
静々と鳴り物もなく一団の男女たちが進んでまいりした。

女は辻ケ花、男は縫い絞り小紋の豪華な衣装を身にまとっていますが、その顔色は死人の
ごとく真っ青。やがてその一団は吸い込まれるように大石垣に消えていきました。

消えた大石の前には女人被衣とせし金襴が落ちていた。と、浄観記に書き残されているのですが
、これを読んだときに私の頭の中で映画の一シーンのような映像が浮かび上がりました。

今回はその大岩を見たいってコトだけでこの社を訪ねたんですけどネ。我ながら物好きな
ことであります。

※厳密にいえば、豊国神社ではなくて、方広寺の亡霊なんですけど、現在では方広寺より、
豊国神社のほうが分かりやすいので豊国神社、とさせていただきました。