秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

明智川。(小畠川)

2009年09月02日 09時25分20秒 | 京都非観光迷所案内
ときは天正十年6月2日、本能寺で信長を討ち取った光秀は急ぎ所領地の丹波へ
戻るべく馬を進ませていた。

流行る気持ちか、かつての主君の首をあげた慙愧の念からかは知らぬが、この地で
光秀は不覚にも落馬。それを見た土地の爺様は、

「エライお疲れのようどす、ここで一休みしていかれてはどないです」

と、腰掛を出し、茶をふるまった。

「かたじけない。おかげで人心地つけたぞ、礼を言う。ところで爺さん、あの東の
方が赤々と燃えておるが、どこが燃えておるかわかるかの?正しき答えならば
望みの品を与えてとらすぞ」

「ハァ、ありゃ本能寺どすなぁ」

「げっ、千里眼か、お主は・・。ウム、見事ナリ。では褒美をとらそう。ナニが
良かろう?高齢年金の引き上げか?」

(千里眼もナニもアンタ、数刻前にこのへんで、「敵は本能寺にあり!」と叫んで
ましたがな。)と、爺様それは声には出さず、

「ホンマどすか?そしたら一つお願いがござります。この辺り田畑の水不足で難儀
しとります。殿さんのお力でどないかしてもらえたら皆もおお助かりどす。」

「ウム、私欲を求めぬとは天晴れナリ。平成の役人どもに聞かせてやりたいの」

と、いうわけで出来上がったのが、この小畠川(こばたけかわ)、別名「明智川」

ま、もちろん嘘話ですけどね。三日後には光秀は天王山で秀吉に敗れ、敗走の途中
で落命してますから・・・・。

史実では、天正三年に信長の命によって光秀がこの地を掘削して出来上がった川だ
そうです。ただそんな話が残されるほど光秀は善政をしいていた、という事なのでしょう。


ps 先日お見舞いに行った職人さんの奥様から昨夜電話があって、昨夕逝って
しまわれました・・。2,3日連絡していたのに返事がないから変だとは思って
いたのですが。仙人殿、もし葬儀に行かれるなら連絡願います。