なにかがあたらしく考えが生まれるのは誰かと居たり物が沢山ある満ち足りた空間というよりは、ひとりで居る空間のその隙間を埋めようともがくその瞬間においてではないか。"欠如"がひとになにかを考えさせ、逆説的にいえば欠如を思うからこそ我々は満たされうる。そういう側面を思えば、欠如のない完璧さの中に身をおくとき、我々はある種とても不自由で可能性の限られた閉塞感のなかに閉じ込められてもいるのかもしれない。なにかと一人の時間が好きで、目に視えるものに満たされすぎると逆に不安にすらなってくる。そういう自分は、そんな不自由へのフラストレーションで動き続けるエゴの塊か。
人間は思考する生き物である。思うに、考えるということは、喪失を思うことである。喪失の後の欠如をうけとめ、抗おうとする行為のことである。人間は本質的に喪失と欠如に端を発した、なにかそういう大きなものとの繋がりから隔たれ、しめだされてしまってはそのコンプレックスに日々向き合い、自分を確かめ続けようとする不思議で特殊な生き物のように思える。
専門家のコトバではそれをエディプス・コンプレックスと呼ぶらしい。
ひとは今日も考え続けるけれど、その孤独の輪郭に自分を確認しつづけているのだろう。人間らしさのひとつがそういう側面にあるなら、なかなかに湿っぽい生き物なんだなぁ、と思う。まーきらいじゃないけどね。たまに除湿機かけたくなるかもね。みたいな。(笑)エゴ除湿機。(笑)
…あれ?そんなオチ?
こんなことがいいたかったのだっけ?(笑)
まあでもエゴって湿っぽいんだなぁ。っておもったよね。たしかにエゴイストほど湿っぽいこと言うようなとこありますよね(笑)…くだらないオチがつきました。おあとがよろしいかとおもいます。
今日の連想はこれまで。またねん