日々の感じた事をつづる
永人のひとごころ
心の除染という虚構③
心の除染という虚構
③
本書は私の故郷である福島県伊達市を舞台に描かれる。伊達市は福島県中通りの北端に位置し、南部を飯館村、川俣町、南西部を福島市、北部を宮城県白石市、丸森町、東部を福島県相馬市、西部を桑折町、国見町と接する。人口は約62、000。
実は『伊達市』という呼称にまだ違和感がある。伊達市は2006年1月に伊達町、保原町、簗川町、霊山町、月舘町という、伊達郡内5町が合併してできた新しい自治体だからだ。
故に出身の梁川町なら兎も角、『伊達市』とくくられるエリアには馴染みではない土地もある。出生地であり3才まで住んだ国見町の方が、母の実家があったこともあり、土地勘があるかもしれない。
伊達市は南北に長い市域で、周囲を山に囲まれた盆地に当たる平野部と、南部には山間地が広がる。
阿武隈川が流れる平野部に位置する梁川町、保原町、伊達町に人口が集中し、この一帯が商工業の中心だ。東北本線、阿武隈急行などの交通網もこの地域に限られる。一方阿武隈高地の山間部に位置する霊山町や月舘町は人口密度も低く、農業や林業が産業の中心となっている。
風光明媚でのどかな風景が広がるが、過疎化が進んでいるのも現状だ。
『伊達市』という名は奥州伊達氏に由来する。伊達氏発祥の地であり、鎌倉時代には伊達氏の本城、梁川城が梁川町に築かれ、伊達正宗が初陣祈願をしたという梁川八幡神社(八幡様)は幼い私にはちょっと勇気を出して足を延ばす冒険の場所だった。
一方南北朝時代には南朝側の北畠顕家が義良親王(のちの後村上天皇)と霊山町に霊山城を構えて北朝への拠点にするなど、中央の歴史にも顔を出す。
主な産業は農業だが、養蚕が盛んな土地だったという歴史がある。
江戸時代には伊達郡一体で、養蚕が発展し、簗川は全国に知られる『蚕都』だった。
養蚕が斜陽になると桑畑は桃やリンゴなどの果樹畑へ。製糸業者はメリヤス業へと転身した。今も阿武隈急行保原駅のキャッチコピーは『ファッションニットの町』だ。中卒で働き始めた同級生たちは、たいていメリヤス会社に就職した。しかし今、メリヤス産業に往時の勢いはない。
伊達市を取り上げるのは故郷であるという個人的な理由だけではなく、原発事故の様々な問題の『縮図』がここ伊達市にあると思うからだ。
『特定避難勧奨地点』という言葉を覚えている人はどれだけいるだろう。「地点」とは世帯、家のこと。
家ごとに『特定』に『避難』を『勧奨』するという制度が作られ、現実に施行された自治体のひとつである。伊達市の南部、飯館村や川俣町に接するエリアに、追加被曝線量が年間20ミリシーベルトを超える「地点」があると判断され、いまだかつてなかった制度が適用された。
隣の家は『特定』の『家=地点』と判断され、『避難』が『勧奨』されたにもかかわらず、自分の家は避難しなくていいという結論が行政から下される。
同じ集落、同じ小学校、同じ中学校に、避難していい家と非難しなくてもいい家が存在する。『勧奨』だから批難はしてもしなくてもいい。年寄りが今まで通り自宅で農作業をしながら暮らしても、東電から毎月慰謝料が支払われる。
一方『地点』にならなかったら、子供が何の保障もなくこの土地に括り付けられる。伊達市に設定された『特定避難勧奨地点』は2011年6月30日から2012年12月14日の『解除』通告まで実質1年半という期間のものだ。
だがその1年半の間に、地域社会をズタズタに切り裂いたこの制度を過去のものとして終わらせていいとは、私には思えない。 続く
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