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こころの教え:私は肉が食べられません②

          わたしは肉が食べられません:②

                 ☆☆

これらは、しっかりとみんなのためにはたらく為に与えられたものだと思います。つまり人間は、人類の進歩のために尽す為、その用事のために生まれて来たのだと思います。

それだのにその用事を忘れて道草をしたり、人に迷惑をかけたり、自分だけの幸せに酔っ払っていい気に成ってしまったり・・・という人がずいぶん居ますね。そんな人は、お使いに行ったのに用事を忘れているのと同じですね。

さて、米沢さんの願いを読んでも、食べ物の好き嫌いを考えても、命を持っているものへの強い愛の心が、米沢さんの心の柱となって居ることを感じます。これも嬉しい事です。

平気でモノの命を殺し、残酷を残酷と考えない人が多くなっている今、米沢さんのように、モノの命の尊さをはっきりと感じられる人が居てくれることは、とてもとても嬉しい事です。

仏教を開かれたお釈迦様も、米沢さんのような人で、モノの命を取る事〔殺生〕を一番悪いことだと教えています。ですから、仏教を信じているお坊さんの中には、今でも魚や、肉を絶対に食べない人が居ます。


出汁(だし)に使うジャコさえ、お汁や、おかずの中に入れない食事を取っている人が居ます。ちょっと米沢さんに似ていますね。私はそういう人を大変偉いと思います。

しかし、また考えてみると、私たちは、ご飯を食べても、豆腐を食べても、みんな『生き物の命』を食べているのです。命を食べなかったら私達も生きてはいけないのです。

だからモノの命を取っても構わない、と言うのではありません。少なくとも、ご飯を食べる時には、手を合わせ『すみません、頂きます』ぐらいのあいさつはしなければいけないと思います。

『あいさつをしたから何を食べてもいい』ということではありませんが、食べただけの働きは必ずする事が大事だと思います。

魚の肉、牛の肉、鶏の肉をいただく時は、「すみません、その代わり、きっと世界が幸せに成るように働かせてもらいます」という心になってもらいたいと思います。

命のあるものを何も食べないで、病気になったり、死んでしまったりするよりも、元気な力を養ってもらって、『世の中のためにいっぱい働かせて貰う』事の方が“大きい愛”だと米沢さんは思いませんか。

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