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あれから120日後の現実


             あれから120日後の現実

              ①・71歳、再び避難所へ

東日本大震災で宮城県石巻市のパート浜中久仁恵さん(71)は。100日ぶりに避難所に戻ってきた。石巻市立門脇中学校の体育館。布団はない。毛布を4枚重ねた上に眠るだけ。

食事のたびに配られるおにぎりや弁当で空腹をしのぐ。夜は体育館に足音が響くたびに目が覚める。
「何もなくていいんです。住む場所さえ決まれば・・・」

震災から4ヶ月、依然居場所決まらぬ境遇は、体力も気力も容赦なく奪っていく。

                     ☆

夫の敏一さん(75)と一人娘の幸恵さん(42)は、市内にあった自宅ごと津波に流され、命を落とした。

独りぼっちになり、避難所に入った浜中さんを迎え入れて暮れたのは市内で一人で暮らす姉の阿部富久子さんだった。震災から3日後の3月14日のことだ。

3部屋のアパートで居間に布団を敷いて寝泊りした。妹の話にいつまでも耳を傾けてくれた。悲しい思いを懸命にこらえている浜中さんを気遣うように、姉は言葉を選びながら一緒に遺体安置所を回ってくれた。

「身を寄せるのは仮設住宅に入るのが決まるまで」と約束し4月に成るとすぐに入居希望を申請した。ところが何度も何度も抽選から漏れる。その日はいつまで待っても来ない。

日がたつにつれ、感謝の気持ち以上に、申し訳ないという気持ちが支配してきた。「姉は無理しているんじゃないか」。臥(ふ)せりがちだった姉なのに浜中さんの前では背筋を伸ばして座っているばかりで、ゆっくり寝転ぶ姿を見せなくなっていた。

「これ以上迷惑は掛けられない」と避難所へ戻る事を告げる浜中さんに、
「あんたが決めたことなんだから、そうしてみたら」と応じた阿部さん。

浜中さんはこうして避難所に戻った。

                     ☆

もっとも、たとえ仮設住宅に入居が決まったとしても、浜中さんを迎える家族はもういない。

震災前、夫は毎日車でパート先まで送り迎えをしてくれた。待ち合わせ場所はいつも職場近くにあるスーパーの駐車場の同じ場所だった。今でもスーパーに買い物に寄る度び,見まいと思ってもその場所に目が向く。

「今日もいないな」解かりきっている筈の事なのに、涙がこぼれそうに成る。

市内の高校の図書館司書として働いていた娘は、毎日帰宅前には必ず電話をかけて来ていた。「幸恵でーす。いま近くまで来たからもうすぐ帰ります」という声が頭を離れない。

「『遺体が見つかってよかったね』って言ってくれる人もいる。でも,よかった、はないんです。あの日はもう帰ってこないんです」浜中さんは溢れる涙をハンカチで拭った。
「時間がたてば少しは忘れられるんでしょうか」

                      ☆

震災から4ヶ月が過ぎた。被災していない人々の記憶が薄れ始めても責められない長さかもしれない。しかし4ヶ月は浜田さんが言う時間にはなっていない。そしてそれは全ての被災者、被災地に通じている。



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今日の一話:資本の暴力

                7月14日
                資本の暴力

事業を行なう限り、利潤の確保に努めることは当然である。
が、それはあくまで適正な競争によるべきであって、手段を選ばぬ過当競争によるものであってはいけない。

ところが現実には、自社製品の市場占有率を高めることのみ考え、損を覚悟で売るという姿が見受けられる事がある。これは資本による暴力に他ならないと思う。

特に大企業がその資本に頼り、暴力的行為に出れば、その業界は大いに混乱する。そしてそればかりか業界の信用をも落とすことになりかねない。

今日、いわゆる暴力が禁止されている如く、資本による横暴も一つの罪悪と見て厳しく自戒すべきだと思う。
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一日一言:口と耳


                7月14日
                 口と耳

戦後教育が育てた人間を漫画にかいたら口はずいぶん大きく描く事になろうが,耳はあるかないかの点ぐらいで表すことに成るだろう。
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