吉岡昌俊「短歌の感想」

『現代の歌人140』(小高賢編著、新書館)などに掲載されている短歌を読んで感想を書く

今と永遠

2018-03-18 23:58:47 | 日記
路地をゆく猫はいつでも長旅の途中のごとし春の夜はなほ
栗木京子『けむり水晶』
(小高賢編著『現代の歌人140』より)

歩いているときに「路地をゆく猫」を見る。ほんの一時の出来事だが、その姿は、猫の過去と未来を思わせる。遠いところから来て遠いところへ行く「長旅の途中」のように見える。この人は「路地をゆく猫」を見るとき、自分の目の前にある一つの風景や猫と共有する短い時間の中に、猫が見てきた/見ていく無数の風景や猫が生きてきた/生きていく長い時間の存在を感じ取るのだろう。
結句の「春の夜はなほ」という限定も、この歌にとって重要だと思う。上句では「いつでも」と言っているので、“路地をゆく猫は長旅の途中のようである”ということは、この人にとっては季節や時間帯を選ばない普遍性のある真理のようなものなのだろう。だが、そのように述べておきながら、最後に「春の夜はなほ」とあえて言い添えることにより、「路地をゆく猫」の姿は、一つの風景の中に置かれることになる。風景が「春の夜」のそれとして絞り込まれることで、猫の姿はよりくっきりと浮び上がり、そこにある色や温度や匂いなども感じられる。
この人には知る由のない過去や未来にどこまでも開かれているという意味で、猫の「長旅」は、“永遠”の出来事のようでもある。(どんな猫にも寿命があるという意味では、その「長旅」は限られた時間の中でのことなのだが、それでも、「いつでも」と思う心の中には、それは始まりも終わりも見えないような時間の広がりをもって映し出されていると思う。また、過去・現在・未来のあらゆる「路地をゆく猫」たちが「いつでも」長旅の途中のようであるとすれば、それもまた果てしない出来事であるように思える。)その“永遠”は、自分がそのときに見る「路地をゆく猫」の姿の中に見出されたものだ。この歌の背後には、この人が見てきた一つ一つの“今”の風景がある。
また、めぐり続ける季節や日々において「いつでも」そうであるような、つまり“永遠”にそうであるような「長旅の途中のごとし」という感慨は、この歌において、「春の夜」という“今”の中にとりわけ色濃く生じている。(もしこの人が、実際に目の前で、「春の夜」に「路地をゆく猫」を見ているのではないとしても、“今”、心の中には、他ならぬ「春の夜」の風景があるだろう。)そして、「春の夜」の猫の姿を思い描くことで、それ以外の季節や時間帯に生きる無数の「路地をゆく猫」の輪郭もまたはっきりとしたものになる。
“今の中に永遠がある”ということが、「路地をゆく猫」というありふれた存在を通して見えてくる。


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