なんでもアラカルト

エッセイ・イラストを対等に扱ったまったく新規な本の出版に関連する記事(Daily)

本年も「なんアラ」を宜しく!

2012-01-02 06:04:01 | Weblog
本年も「なんアラ」を宜しくお願いします。

昨年末、「なんアラ」通巻13号用のエッセイが、12名、24件が出そろった。
残る1名2件のエッセイも、この正月三が日で届くものと信じている。
昨日郵便受けに入っていた、出雲市NMさんからの年賀状には、筆の遅さを詫びる文言が記載されていたので・・・。

実は、私は、結局12/31の大晦日の午前中に2件のエッセイを一気に書いたのである。

中身の一部を紹介したい。
・・・・・
一つ目が、
「父の鍛冶職を継がなかった訳」

今回の「人生のターニングポイント」特集の仕掛け人である編集者からみても、このタイトルはかなり重いテーマである。
しかもそのターニングポイントを二つに絞ることにも尚困難をきたしている様に思える。

その無理を承知で設定した私の、最初のターニングポイントは中学二年に訪れた。
現在、家庭教師をしている生徒さんと同じ時期である。

その頃は、やはり漠然と将来を考えているもので、是非こんな職につきたいなどとはあまり、考えないのは半世紀前も今も大して変わらないのでは無いだろうか?

さて、私の父は鍛冶職で、小学卒業後お袋(所謂職場結婚)の親つまり私の祖父に弟子入りした根っからの職人である。
鎌・鍬・鉈と言った農機具を始めとして、刀の補修も出来る肝いりの腕の良い鍛冶屋で、製造・直売をして生計を立てていた。
そして、当然の様に、小中を通じて月に一度の農機具直売の日(28日)には、欠かさず丸一日手伝いをしていた。

従って、中学時代考えていた将来は、当然親の後を継いで、鍛冶職につくものと自己暗示にかけていた。
以下続く・・・・・・・・
・・・・・
二つ目が、
「プロジェクトチーム結成時に素材開発に担当変更上告」

先のエッセイで述べたように、中二で親父の鍛冶職を継がないと言う大きなターニングポイントを迎えた後、高校進学・大学進学・就職と淡々と20歳代後半まで、人生を歩んできて、伴侶と長女を得て、更に次女が家内のお腹に居ると言う充実したサラリーマン生活を過ごしていた、入社3年目の春、転機が訪れた。
それは、大学の研究生活に毛が生えた程度のゆったりとした、且つ自分の好きな研究をしながら給料がもらえると言う、当時は充分満足できる生活に、突然やってきた予想もしない転勤通告であった。
8名のFF内の各事業所から集められたメンバーで、全く新規なプロジェクトを3年で達成すると言う内容であった。
当時3年間を過ごした埼玉県朝霞市・志木市を離れ、1年間は神奈川県南足柄市、残りの2年間は静岡県富士宮市で過ごすことが言い渡された。
そして、いよいよ8名の担当がチームリーダーから発表があり、写真の処理担当を任命された。
上述のように入社後3年間は、銀塩写真とは全く縁が無い、明室に於いての作業に対して、いきなりFF社の本来の業務である暗室内作業を前提とした研究なのである。
一晩考えたが、もう一つの担当部署である素材開発と言う基本科学・オリジナルなイメージに心が引かれ、何とかしてここで、自分の意思表示をしなければと思うようになった。
以下続く・・・・・・・・
・・・・・

この後、愛知県西尾市のYKさんから、2件のエッセイが届き、残りが1名・2件となったわけである。


コメント
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