「小豆とごうか♪、人獲って喰おうか♪、しゃきしゃき~」
ゲゲゲの女房に出てくる水木しげるの妖怪も柳田国男の山人も宮沢賢治の動物たちも皆、人間が自然の一部であった時代は、人間と区別なくまわりにいた。と、彼らは考えていたらしい。それは遠い昔の話ではなくごく最近のはなしなのである。明治天皇は崇徳院の怨霊封じのために明治初年の即位と同時に京都に白峰神宮を建立している。おそらく天皇家は今も皇居の奥殿で怨霊封じの儀式を続けている。・・・かもしれない。
ところが、2200年前の司馬遷の史記には超自然現象は出てこない。出てくるのは生々しい人間ばかりである。まだ、史記列伝2巻目が終わったばかりだけど、各列伝の最後の太史公(司馬遷)の批評が抜群なのである。
李斯(りし)列伝では、始皇帝の死後、”趙高の邪説に加担して、嫡子を廃し、庶子を立てた。諸将の反乱がおこったあとで、やっと強く諫言しようとしたが、なんと本末を誤っているではないか。”と批判する。始皇帝の遺言を偽り嫡子の扶蘇を自害させ、胡亥(こがい=二世皇帝)を即位させた宦官の趙高の策に加担したり、韓非を謀殺し焚書坑儒を行ったり、後世の評判が悪いが、少なくとも始皇帝に天下を獲らせた最大の貢献者であり、”さもなければ李斯の功績は、聖人周公や賢人召公とさえ肩を並べることになろう。”と評価している。世間の評価に左右されない司馬遷のバランスの良さが際立つ。
李斯の前に秦の宰相だった范雎(はんしょ)列伝では、”長袖は善く舞い、多銭は善く買う”(準備が良い人が成功する)という韓非子の言葉は至言であるといい、準備をしてことに臨む人は多いが、ただ成功するには偶然も重要であると指摘し、”困窮におちいらなかったら、発奮することができたであろうか。”と李斯の努力を評価する。人の業績を単純に評価しないところが、宮刑を受けた困窮の中で史記を完成させた司馬遷らしいのである。
”奇貨居くべし”の呂不韋列伝では、”孔子のいわゆる”聞”とは、つまり呂不韋のことをいうのである。”といい、孔子の聞とは、仁を看板にかかげて行動はその逆、しかもそんな自分に疑問すらおこさない有名な人物のことで、その逆の”達”は、まっすぐな性、正義を愛し、注意深く、人に同情があり、謙遜がある人物を指す。
刺客列伝では、五人の刺客が、”義侠の行ないを成しとげた者も、成らなかった者もいる。けれどもその心ばえは明白であって、志にそむきはしなかった。”と、司馬遷は結果よりも志を評価する。
秦末の混乱期に台頭した張耳・陳余列伝では、貧しいころ二人は助け合い誠実であったが、のちに裏切りあい残忍だった。自分の利益をはかろうとしたからだと批評する。
始皇帝の嫡子扶蘇を支えたが、のちに趙高に責められ自殺する秦の将軍蒙恬(もうてん)列伝では、蒙恬が死にのぞんで、自分の罪は長城や道路建設の土木工事で”地脈を断った罪”だと言ったことに対し、司馬遷は、天下が治まって未だ長い時間が絶たず、負傷者たちの傷さえまだ治っていなかったのに、蒙恬は秦の名将軍として、このときにこそ主君を諫言し人民の困窮を救わず、逆に始皇帝の気持ちにおもねって土木工事をおこした。”その罪を地脈を断ったことにおいてよいわけはないのである。”と断罪するのである。地脈は地層の筋道で、これを断つと天罰がくだるという迷信があった。史記に超自然現象が出てこないように司馬遷が迷信にとらわれない現実主義者であったことがうかがわれる。
”地脈を断つ”仕事(土木工事)ばかりしていると、地球から逆襲を受けていずれ天罰が下るかもしれないのが怖い。司馬遷のようにいつも現実的ではいられないところが普通の人間の弱さなのかもしれない。
ゲゲゲの女房に出てくる水木しげるの妖怪も柳田国男の山人も宮沢賢治の動物たちも皆、人間が自然の一部であった時代は、人間と区別なくまわりにいた。と、彼らは考えていたらしい。それは遠い昔の話ではなくごく最近のはなしなのである。明治天皇は崇徳院の怨霊封じのために明治初年の即位と同時に京都に白峰神宮を建立している。おそらく天皇家は今も皇居の奥殿で怨霊封じの儀式を続けている。・・・かもしれない。
ところが、2200年前の司馬遷の史記には超自然現象は出てこない。出てくるのは生々しい人間ばかりである。まだ、史記列伝2巻目が終わったばかりだけど、各列伝の最後の太史公(司馬遷)の批評が抜群なのである。
李斯(りし)列伝では、始皇帝の死後、”趙高の邪説に加担して、嫡子を廃し、庶子を立てた。諸将の反乱がおこったあとで、やっと強く諫言しようとしたが、なんと本末を誤っているではないか。”と批判する。始皇帝の遺言を偽り嫡子の扶蘇を自害させ、胡亥(こがい=二世皇帝)を即位させた宦官の趙高の策に加担したり、韓非を謀殺し焚書坑儒を行ったり、後世の評判が悪いが、少なくとも始皇帝に天下を獲らせた最大の貢献者であり、”さもなければ李斯の功績は、聖人周公や賢人召公とさえ肩を並べることになろう。”と評価している。世間の評価に左右されない司馬遷のバランスの良さが際立つ。
李斯の前に秦の宰相だった范雎(はんしょ)列伝では、”長袖は善く舞い、多銭は善く買う”(準備が良い人が成功する)という韓非子の言葉は至言であるといい、準備をしてことに臨む人は多いが、ただ成功するには偶然も重要であると指摘し、”困窮におちいらなかったら、発奮することができたであろうか。”と李斯の努力を評価する。人の業績を単純に評価しないところが、宮刑を受けた困窮の中で史記を完成させた司馬遷らしいのである。
”奇貨居くべし”の呂不韋列伝では、”孔子のいわゆる”聞”とは、つまり呂不韋のことをいうのである。”といい、孔子の聞とは、仁を看板にかかげて行動はその逆、しかもそんな自分に疑問すらおこさない有名な人物のことで、その逆の”達”は、まっすぐな性、正義を愛し、注意深く、人に同情があり、謙遜がある人物を指す。
刺客列伝では、五人の刺客が、”義侠の行ないを成しとげた者も、成らなかった者もいる。けれどもその心ばえは明白であって、志にそむきはしなかった。”と、司馬遷は結果よりも志を評価する。
秦末の混乱期に台頭した張耳・陳余列伝では、貧しいころ二人は助け合い誠実であったが、のちに裏切りあい残忍だった。自分の利益をはかろうとしたからだと批評する。
始皇帝の嫡子扶蘇を支えたが、のちに趙高に責められ自殺する秦の将軍蒙恬(もうてん)列伝では、蒙恬が死にのぞんで、自分の罪は長城や道路建設の土木工事で”地脈を断った罪”だと言ったことに対し、司馬遷は、天下が治まって未だ長い時間が絶たず、負傷者たちの傷さえまだ治っていなかったのに、蒙恬は秦の名将軍として、このときにこそ主君を諫言し人民の困窮を救わず、逆に始皇帝の気持ちにおもねって土木工事をおこした。”その罪を地脈を断ったことにおいてよいわけはないのである。”と断罪するのである。地脈は地層の筋道で、これを断つと天罰がくだるという迷信があった。史記に超自然現象が出てこないように司馬遷が迷信にとらわれない現実主義者であったことがうかがわれる。
”地脈を断つ”仕事(土木工事)ばかりしていると、地球から逆襲を受けていずれ天罰が下るかもしれないのが怖い。司馬遷のようにいつも現実的ではいられないところが普通の人間の弱さなのかもしれない。