備忘録として

タイトルのまま

大乗非仏説

2013-09-08 22:05:53 | 仏教

 1964年の東京オリンピックは徳島で白黒テレビの放映をかじりついて見た。2020年の東京オリンピックは生で見られるかもしれない。今回の招致レースでは、福島の汚染水が問題になったが、汚染水は安倍首相じゃないけど適切な対策でなんとかなる。それより切実で対策が見えない東海東南海地震のことはまったく話題にならなかった。2020年までの準備期間中に東京を巨大地震が襲ったときにどうなるのか、どうするのかという質問はなかった。仮定の話には答えないというわけにはいかないはずだったが、結局、海外のメディアは現前のリスクだけを見て、本当のリスクは見ていないのではないか。

 東京招致のプレゼンは良かった。子供、身障者、被災地、世界中の人々を勇気づけ励ますことがスポーツ本来の姿であり、それがオリンピックの理念であることを示し、東京がそれを確実に実現できるということをそれぞれのプリゼンターが伝えていて素晴らしかった。金はかかるが、昭和の東京オリンピック時の老朽化したインフラを更新するチャンスでもある。滝川クリステルが日本には”おもてなし”の心があると言っていたが、それは大乗仏教の他者への奉仕、援助、救済の伝統が日本に根付いているということなのかもしれない。と、今日の大乗仏教論に強引にもってきた。

日本に深く根付いた大乗仏教だが、江戸時代に富永仲基という人が、「大乗非仏説」なるものを唱えた。大乗仏教である般若心経の空の理論法華経に書かれた教説はブッダ(釈迦=ゴータマ・シッダールタ)の説く阿含経に記された原始仏教と異なるということは、現在では疑いようのない説であるという(「バウッダ佛教」中村元・三枝充悳)。大乗仏教の法華経では本来のブッダを仮の姿の迹仏と呼び神格化したように、仏教はブッダの死後、大きく変容する。思想は、歴史の展開する一過程にあり、それ以前のものの上に加え、しかも正統を装って形成される。これを富永仲基は”加上”と呼ぶ。加上では非主流であった考えは昔に追いやられるため、”古いものほど新しい”(陳舜臣)というようなことが起こる。

しかし、大乗仏教は仏教ではない、非仏なのかというと一概にはそう言い切れないところも少しはあるようだ。それは大乗仏教の教説の中に、ブッダの原始仏教で萌芽している思想の発展形が認められるからである。空の思想につながる思想がブッダの言葉の中に見出されるのである。大乗仏教は北伝し、中国、朝鮮を経て日本へ入ってきて聖徳太子などによって国教になる。

法華経には数知れない仏や菩薩が出てくる。ブッダはその中の一人の釈迦仏にすぎない。本仏は他にいて我々は久遠の大生命の中に抱かれ生かされている。さらに、日本の各宗派を見ると、釈迦仏よりも宗派の宗祖のほうが大切に扱われている。それぞれの宗派では、親鸞、日蓮、道元などの宗祖がお釈迦様より厚く祀られている。寺で詠まれるお経は般若心経や法華経の一節であり、浄土真宗は宗祖親鸞の教行信証である。ブッダの言葉はどこにも出てこない。ブッダが、呪術、呪文、迷信、密法を批判し禁止したように、初期仏教は、透明で、理性的で、倫理的である。ところが後世、大乗仏教の主流を占めた密教はヒンズー教の影響を受け、護摩をたくなど神秘性を帯びた作法を行じ真言(マントラ)を唱え、一種のエクスタシーに浸り功徳を占有するように秘儀的色彩が濃い。

三枝は、大乗仏教は「仏教の名のもとに一大文化を形成している。殊に我が国においては文献学的に明白な誤りでありながら、大乗経典を釈尊に帰してみたり、あるいは仏教以外のものをかなり自由に放埓に、仏教内部に取り込んで、----文学、芸術、芸能に、生活の規範に、祈祷や占いに、日本語の言語そのものに、とりわけ葬祭に、そのいわば美名のもとに濫用される。」と辛辣に批判する。しかし、三枝の批判は宗教をご都合主義で勝手に改ざんする点にあって、滝川クリステルが言った”おもてなし”の心など日本人の精神性に深く浸透し民族の美徳にまで昇華されている大乗文化は、けっして批判されるようなものではないと思うのである。

日本と同じように大乗仏教が伝わった中国では、大乗仏教は単なる外来宗教の一つで、道教などの中国固有の宗教にわずかな影響を与えたに過ぎず、日本ほどは受容されなかった。

宗教とは「神的な力を信じること」、哲学が「人生の叡智を求めること」 とすれば、ブッダは人々を人生の苦から開放する知恵を教えたという点では哲学であり、大乗仏教は諸仏の力や経典の力に頼るという意味で宗教と言える。ここにおいても、大乗非仏説は成立するのである。 

*富永仲基(1715-1746)は、町人思想家で懐徳堂の流れを引いた合理主義・無神論者であった。懐徳堂は大阪商人が開いた学問所で門人に山片蟠桃や大塩平八郎がいる。