茂ちゃんの春夏秋冬フォト・ジャーニー

思い描いていた風景との一期一会を求めての写真旅。

霊水

2007-06-23 | weblog
仏大寺の霊水堂へ水汲みに行ってきました

仏陀禅寺(仏大寺)は能登総持寺の第三世大源宗真禅師が一三六三年に開創された夢幻寺です。
集落の東側に山門や北側一帯に寺屋敷跡があり、その山裾の畑地の祠に板碑が安置されています。遺水観音山の登り口にある霊水堂は仏大寺の禅宗寺の霊水かと思われ謎の多い水です。

辰口町史第6巻続現代編 629頁


駐車場にはたくさんの車が駐車していました。










村の沿革

村のはじまり聖なる山、山中に霊地あり、安置されている観音像は白山信仰につながる禅定道のかなめとなっているが、峰々に広がる行道(おみち)は古代から里人の厚い信仰とともにその面影を今にとどめ保持されてきた。
(1)遣水山観音堂(白山礼拝所)この開闢はいつのことかは明らかではない。往時は人々から南坪野とよび伝わってきた。
中世(南北朝)にいたり曹洞の禅刹能登総持寺の三世に輪住された太源宗真禅師が、加賀のこの地の山麓に一宇の草庵を創立して、大鷲山仏陀寺と号したのである。
以来、室町時代には大きく太源一派が教線の拡大強化を遂げられ、太源派四三五八力寺の根本道場ともなって、この山間の聖地に二三〇年間も伝燈がつがれたことであった。
また、集落の全体が寺域となって発達し、いつしか人々の語らいが仏陀寺から仏大寺と呼称され伝えられるようになったのであろう。しかし、由緒ある白山信仰にまつわる観音堂禅刹の主要寺院仏陀寺も激動した乱世の流れの中にあって、いつしか廃絶したのであった。
白山信仰にかかわる遣水山観音堂は、近代までも女人禁制が保持されてきた霊地であった。
ここに、白山禅頂行者に釈蔵縁がいる。彼は白山、立山に修練をかさね神融法師(泰澄)の徒弟として行動をともにした。また、晩年には笥笠中宮(石川郡吉野谷村)に住居したと伝えられ所伝の行人札は蔵縁の徒弟が伝統をついだものであって、彼等が下山して各地の霊地を巡るうちにまた白山の神秘を宣布したと思われ、遺水山も例外ではなかった。
これら寺院(中宮八院)の展開に先だって前山の主峰遣水山には験者がすでに泰澄ゆかりの観音像を安置して教線の拠点となしたことが考えられる。今日遣水山観音堂に安置される木像観音菩薩像、また山麓の仏大寺八幡社に安置されている本地地蔵菩薩立像はともに鎌倉以後のものではないと認められるもので、この山頂に修験の堂坊ができ、今に付近一帯にわたる行道の縦走線上には往古の遺風などがその形状を留めている。
また、村鑑(天明五年)には「三ケ所宮、観音、地蔵、八幡(東北宮)」とあるが、明治の廃仏棄釈が実施された時、村人は、由緒ある観音堂を廃棄するに忍びがたく、八幡社の奥院として奉祀されたのである。その後、明治三八年には、東北宮(仏陀寺の守護神)を合祀し、昭和一五年に現在の社殿が新築された。
(2)太源さま 今は幻の寺院仏陀寺、その伝記には大源さまは、ただ加賀の人と記すだけで両親についても生誕の日も伝わっていない。幼時より仏門に入り峨山禅師(能登総持寺二祖、誰号は大現宗猷国師)のもとで昼夜の別なく精進されてすばらしい境地に到達され、峨山禅師から大悟の証明を受けられた。
ときは貞和五年(一三四九)六月一日と伝わっている。それ以来二〇年のこ生涯は郷里近くに造立された仏陀寺の経営や、総持寺でのお師匠様の摂化の手伝い、学徒の教育などに専念される日々であった。本山第三世を継がれた大源禅師は、三年後に住持職を法弟の無際純証師(富山・自得寺開山)に譲り、おのが開山道場の仏陀寺に退院された。
仏陀寺は一六世紀末の文禄年間のころまでの古文書に寺名の記録をとどめている。開山寂後のかなりの期間にわたって、法流寺院(大源派)からの輪住も円滑に行われたようだが戦国の動乱、一向一揆の勢力下にあってもなお維持されていたことが明らかであった。
もともと仏陀寺の寺域(須恵器出土 九世紀平安時代)は白山権現の分社に近接し、山門はその参道に沿って建てられ白山の観音信仰と重層して禅風の挙用が行われたと考えられる。また白山の観音を勧請した観音堂を東南の方向に間近に拝するよう堂宇が建てられた。
ここに仏大寺全域が堂坊となって禅旨を慕って住した禅侶、また参じた禅者達が今もなお集落内に残される地名、坊ノ屋敷(新宅源三郎宅跡)坊ノ池(畑中宅後ろ)などに往時の夢を留めて今なお村人の語らいとなっている。応安四年(一三七一)の冬一一月二〇日大源禅師はこの世を去られた。

辰口町史第5巻集落編 919~922頁

【撮影 2007.6.16(土) Nikon D200】

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能登の風景

2007-06-20 | weblog
ぼら待ちやぐら

能登半島の漁法として知られる「ぼら待ちやぐら」です。
昔はジーッとぼらが来るのを、やぐらの上で待っていました。のんびりした漁法です。
人に見えるのは人形で、夕方はライトアップされます。
能登半島地震でも壊れずやぐらは健在でした。
   『がんばろう能登半島』
場所は249号線沿いにあります(鳳珠郡穴水町)。

【撮影 2007.6.19(火) Nikon D200】


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紫陽花2

2007-06-18 | 花・野草・山草を撮る
我が家の庭の紫陽花2段目です。
いろんな額紫陽花を撮りました。

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首飾り・・・


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自由気ままに・・・


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山から持ってきて挿し木して育ったものです。


【撮影 2007.6.17(日)Nikon D200)


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卯辰山菖蒲園の花菖蒲パート2

2007-06-15 | 花・野草・山草を撮る
卯辰山菖蒲園に行ってきました。
先週は咲き初めで花もチラホラでしたが、今日は9割ぐらい咲いていて花菖蒲は見どころでした。周辺の紫陽花は今一といった感じです
結構写生をしている人が多くおられたので、邪魔をしないように気をつけながら撮りました。


入り口の駐車場から見た菖蒲田です。


遊歩橋を渡り駐車場方面を見た状況です。


紅葉の木のトンネルをくぐり・・・・ぬけると


アベックがおられました。楽しいそうです。何を見て・・・・


一回りしてくると紫陽花の影からさきほどのアベックが・・・・おじゃましないように・・・


見ている前方はこのようなロマンチックな場所です。・・・いいなあ~


足元は美しい花菖蒲が咲き乱れています。


花も寄り添って・・・・












周辺の紫陽花も祝福しているよう・・・・・

【撮影 2007.6.15(金)Nikon D200】


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紫陽花1

2007-06-10 | 花・野草・山草を撮る
我が家の庭の紫陽花を撮りました。
いろんな品種の紫陽花がありますが、名前は知りません。咲き始めですので、全体の姿を写せませんでした。色は植えた場所によって、変わりますね。一番最後のは以前は青だったのに、移植しましたら、現在の色になってしまいました。今日は雨だったので、雨上がりのすきを見て撮りました。









【撮影 2007.6.9 (土)Nikon D200】


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卯辰山菖蒲園の花菖蒲

2007-06-07 | 花・野草・山草を撮る
卯辰山菖蒲園に行ってきました。
金沢四百年(昭和57年)を記念して造園された花菖蒲園で、約100種20万株もの花菖蒲が堪能できます。周囲には2900株のアジサイも植えられており、同時に楽しめます。

ちょと早かったみたいです。紫陽花もチラホラでした。











(撮影 2007.6.7(木)Nikon D200)

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森の都金沢

2007-06-05 | weblog
百万石祭の日「天徳院」~「兼六園」へと散策しました。
金沢は森の都と言われるとおり、木々の多い街です。
天徳院から兼六園までの散策した道順にみた情景をご案内します。

◎天徳院
金龍山 天徳院(きんりゅうざん てんとくいん)は石川県金沢市小立野にある曹洞宗の寺院。寺院の名称は加賀藩主前田利常の正室珠姫の法号である天徳院殿乾運淳貞大禅定尼に因んでいる。


厚生年金ホールの横でも緑がとっても豊富です。これが市内の中心地ですよ。


兼六園に近づくにしたがって森も深くなって行く感じです。歩道の右側には能楽堂が近くにあります。木々が太陽をさえぎって木陰を作り、とっても爽やかです。


歩道の右側にちょっとした空き地があってコケがとっても美しかった。因みにベンチも設置してあって、一休み出来るようになっています。


県立美術館まできました。森の中の美術館です。


美術館の反対側に兼六園があります。石引方面からの入り口です。
バスストップの看板の横を入って行くと、金沢神社があります。


◎金沢神社(かなざわじんじゃ)は、石川県金沢市に鎮座する神社である。菅原道真を主祭神とする。

寛政6年(1794年)、加賀藩11代藩主前田治脩が藩校明倫堂を建てた際、その鎮守社として、学問の神であり、前田家の祖先とされる菅原道真を奉斉する神社を創建したのに始まる。兼六園を整備する際に明倫堂は別の地に移転したが、神社はそのまま残され、12代藩主前田斉広が建てた竹沢御殿の鎮守社とされて竹沢御殿御鎮守天満宮と称した。神社には、災難除けの神である白蛇竜神、交通安全の神である琴平大神、商売繁盛の神である白阿紫稲荷大明神も合わせて祀り、歴代の藩主が兼六園を散策する際に藩内の繁栄と平和を祈願した。

神社への参拝は、明治以前は4月25日と9月25日の例祭の時に城下の婦女子にのみ許されていた。明治7年の兼六園の一般開放にあわせて、自由に参拝が出来るようになった。明治9年に金沢神社に改称した。

学問の神である菅原道真を祀った神社の中でも金沢市の市街地に最も近く藩校の鎮守であったという経緯もあって毎年受験シーズンには、数多くの受験生が参拝に集まる



金沢市の名前の由来
「金沢」という名前の由来は、ある金沢の地名伝説からのものだそうです。その昔、「芋掘藤五郎」という石川郡山科に住む貧人が、署蕷(しょよ=やまいも類)を掘って生活していました。ある日、山芋を掘りに行ったところ、そこから砂金のついた山芋が出てきました。その山芋を洗った沢が、「金洗いの沢」と呼ばれるようになり、そこから「金沢」という地名がつけられたそうです。ちなみに、「芋掘藤五郎」は金沢の地名伝説に伝えられる架空の人物だそうです。
「金洗いの沢」は兼六園内の金沢神社の隣りにあり、現在は「金城霊沢」と呼ばれています。

◎金城霊沢

(撮影 2007.6.2 (土)Nikon D200)
市内をぐるぐる回るフラットバスがありますのでいろんなコースをフラットバスで回るのもいいかもね。

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金沢城

2007-06-03 | weblog
金沢城に行って来ました。

 金沢城公園には、スダジイ、タブノキ、ヤブツバキ、ケヤキ、などの樹種、エノキ、カラスザンジョウ、チシマザサ、メダケのような木々、コシャク、ウバユリなどの野草など548種類以上の植物があります。特に本丸の森は、かつて金沢大学理学部付属植物園で、ハナノキ、タイサンボク、セコイアなどの内外の珍しい木々が植えられ、大学が置かれた50年間に200数種も増えたということです。




石川門


三の丸広場と五十間長屋


戌亥櫓跡より見た二の丸広場と五十間長屋


二の丸広場に花壇がありました。


ポピー

リビナス


本丸への入り口(本丸の森)


森の中

辰巳櫓跡より見た金沢市内の情景
左側は兼六園入り口になります。真ん中は21世紀美術館。


かつての金沢大学跡は芝生の広場になっていました。


(撮影 2007.6.2 (土) Nikon D00)


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兼六園

2007-06-02 | weblog
兼六園に行って来ました。
今ちょうど新緑がとっても美しい時期です。
百万石祭の日なので観光客がたくさん入園されてました。
人を避けてあまり絵葉書にないところを写しました。




翠の滝、池には鯉がたくさん泳いでいます。

小さな滝なのにアップするととっても雄大な滝に見えてきます。
滝つぼの石の並べ方とか造りが素晴らしいのでしょうね。



兼六園から眺めた金沢市内の情景です。


兼六園の梅園の梅はたくさん実をつけていました。
収穫した梅は梅干しにして、施設(ホーム等)に配られます。


カキツバタの新緑は美しいです。


新緑一色の園内の中にツツジがワンポイント目立っていい感じです。

[撮影 2007.6.2(土)Nikon D200)

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