山歩人・吉克の山楽日記

北海道の“山”を中心にオールシーズン山歩(散歩)する・・・単独登山多し、山をテーマに限定した時々気まぐれ日記です!

幕末の探検家・松浦武四郎~永遠のニシパ

2019年06月16日 | 山の勉強

【松浦武四郎の東西蝦夷山川地理取調図】北海道150年記念ドラマ「永遠のニシパ 北海道と名付けた男 松浦武四郎」が道内で先行放送されたので観たが・・・まあよく探検家の松浦武四郎を含め測量家の伊能忠敬など先人らは、道内の不明瞭な悪路、山道など、道なき道を歩いたものだと感服する。登山の藪漕ぎでも大変なのに・・・北海道の名付け親である幕末期の探検家・松浦武四郎(1818~88年)が蝦夷地(えぞち)と呼ばれた道内各地を巡り、アイヌ民族との交流を描いている。ニシパはアイヌ語で「大切な人」の意味。道内各地の記録を取りながら歩いた苦労が伝わるドラマだったが、後味は決して良くないドラマだったような気がする。アイヌ民族を抑圧した松前藩や商人を告発し、アイヌと共生の思想に目覚め、新しい国を造ろうとしたのに、アイヌ民族と心を通わせた武四郎を、よく思っていない松前藩などから命を狙われる。松前藩らの圧政に憤る武四郎の無念さをドラマで痛感した。政府を辞職した後に雅号としたのは、皮肉をたっぷりこめた「馬角斎」(ばかくさい)だった・・・なるほど昨年(2018)は探検家・松浦武四郎の生誕200年と、北海道命名150年が重なっている。松浦武四郎は、蝦夷地に関する著作を数多く残している。道内の山にも登っている。羊蹄山=公刊本「後方羊蹄(しりべし)日誌」安政五(1858)年3月18日。石狩岳(大雪山)=公刊本「石狩日誌」安政四(1857)年6月23日。雌阿寒岳=公刊本「久摺日誌」安政五年(1858)年5月8日。摩周岳(カムイヌプリ)・西別岳=公刊本「久摺日誌」安政5年(1858)年5月18日にカムイヌプリ(摩周岳)、翌7日に西別岳。日高・観音岳=戊午日誌巻外「東部登武智志」安政5年(1858)年7月24日・・・まだあるようだが

【天塩川付近には武四郎の記念碑があるので今度ゆっくり訪ねてみたい

松浦武四郎の生涯

1818年(文化15) 伊勢国一志郡須川村(現・松阪市小野江町)に生まれる ※伊能忠敬が亡くなる

  33年(天保4)  突然家を出るが、江戸で見つかり連れ戻される ※天保の大飢饉

  34年(天保5)  全国各地を巡る旅に出る

  38年(天保9)  長崎で大病を患い、出家して僧となる

  42年(天保13) 朝鮮半島へ渡ろうと対馬まで行くが、鎖国で諦める

  43年(天保14) 故郷へ戻り、ロシアが南下する危機から蝦夷地の調査を決意

  45年(弘化2)  初めて蝦夷地に渡り、太平洋岸を歩いて知床岬の先端に到達

  46年(弘化3)  2回目の蝦夷地調査で樺太に渡る ※米国の使節ビッドルが浦賀に来航

  49年(嘉永2)  3回目の蝦夷地調査で国後島や択捉島などを訪問

  54年(安政元)  宇和島藩の依頼で下田にいたペリー一行の様子を調査 ※日米和親条約

  56年(安政3)  4回目の蝦夷地調査で箱館から宗谷、樺太を訪問 ※米国総領事ハリス着任

  57年(安政4)  5回目の蝦夷地調査。上川、天塩地方を回る

  58年(安政5)  6回目の蝦夷地調査で海岸線と十勝、釧路、日高地方を探索 ※日米修好通商条約、安政の大獄

  69年(明治2)  開拓判官に任命され、「北海道」の名前や郡名の基となる案を考える ※東京遷都、戊辰戦争終結

  84年(明治17) 高野山の骨堂に抜けた髪や歯を納め、近畿地方を旅する ※松方デフレで不況

  88年(明治21) 東京・神田の自宅で亡くなる

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