顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

烟田(かまた)城址…佐竹南方三十三館仕置で落城

2019年03月03日 | 歴史散歩
鉾田市の烟田集落の上部台地に位置する烟田城址は、約360年間この地の雄として君臨した烟田氏の居城です。
築城年代は明らかではありませんが、13世紀前半、常陸平氏大掾一族の徳宿秀幹は子朝秀に烟田・富田・大和田・生江沢の四ケ村を譲り、朝秀が烟田氏を称したのが始まりといわれます。

文明18年(1486)水戸城の江戸通雅は徳宿城を攻め、烟田入道は徳宿氏へ加勢しましたが城は陥落、入道も息子共々討ち死にしてしまいます。(弊ブログ「大軍の前に落城…徳宿城」掲載)その後も烟田氏は戦国の世を生き残りましたが、18代烟田通幹のとき天正19年(1591)、他の大掾一族の城主たちと佐竹義宣に常陸太田へ兄弟で呼ばれ、全員一緒に謀殺されてしまいます。城主不在の城もすぐに押し寄せた佐竹氏の軍勢に攻められ落城し、鹿島地方の常陸大掾一族は滅びました。

常陸54万国の太守になった佐竹氏の陰惨な歴史の1ページ、いわゆる「佐竹氏の南方仕置三十三館」は、内原町の和光院過去帳に「天正19季辛卯2月9日於佐竹太田に生害の衆、鹿島殿父子、嶋崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、烟田殿兄弟、相鹿殿、小高殿父子、手賀殿兄弟、武田殿、已上16人」という記載があり、実際に大田城で殺害されたのは9氏16人と言われます。三十三館とは数の多さを表す数字で、残った一族の他の城もすぐに佐竹の軍勢に攻められことごとく落城したということです。

明治になって新宮小学校の敷地になり、また南側道路の造成により空堀、土塁が崩され僅かな土塁や堀跡が残るのみです。その校庭南側には土塁が残り案内板も建っています。

Ⅱ郭の南は急峻な崖になっていて北浦に続く水田地帯を見下ろしています。

Ⅰ郭西側の空堀の跡、小さな社が建っています。

Ⅰ郭東側の急峻な土塁です。

天台宗の無量山西光院、鎌倉時代烟田氏の建立とされ、廃城となった烟田城跡の東の部分に天正20年(1592)移転してきたとされます。参道の両脇に土塁の跡があります。

須佐之男命を祀る氷川神社は、Ⅰ郭跡の新宮小学校校庭にある珍しい神社で生徒たちに大切にされていると学校のホームページに出ていますが、全校生徒約70人のこの学校は今年で閉校になるそうです。江戸時代に旗本渡辺氏が勧請したそうなので当時この地方は旗本領だったようです。

Ⅰ郭奥の藪の中に白さが際立つ野生の梅が咲いていますが、佐竹の軍勢に一気に踏み潰された歴史を語ってはくれません。

後日、北浦方面から撮リました。左中央の平坦地は、Ⅱ郭の南側になります。

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