顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

もう一つの常磐神社と追鳥狩

2020年11月24日 | 水戸の観光

水戸で常磐神社といえば、偕楽園に隣接した水戸藩2代藩主徳川光圀(義公)と9代藩主斉昭(烈公)を祀る社のことです。明治の初めに義公・烈公の徳を慕う人々によって偕楽園内に創立された祠堂が、明治6年(1873)に勅旨をもって「常磐神社」の社号を賜り、翌明治7年(1874)現在地に社殿を造営しました。

さて、もう一つの常磐神社は、その斉昭公が「追鳥狩」という大掛かりな軍事演習をした水戸市の千束原(水戸市元石川町)の本陣跡に建てられています。

斉昭公は、長い海岸線を持つ水戸藩沿岸に外国船が出没することに危機感を抱き、狩猟の形式をとった軍事演習「追鳥狩」を行いました。その第1回は天保11年(1840)年3月に、騎兵3,000、雑兵約20,000の規模で行われ、隊伍整然と千束原までの行軍は、行列の先頭集団が到着してもまだ後尾は水戸城にあったと伝えられています。

その時の斉昭の本陣跡に、斉昭公が没した4年後の元治元年(1864)5月、村民が小祠を建てて斉昭公を祀った社が明治7年の常磐神社の創建に伴い、末社として常磐神社と称せられました。

その後追鳥狩は斉昭公の失脚による中断を経て、安政5年(1859)までに水戸郊外の千波原、堀原などで9回実施され、他藩からも見学にくるほど評判になりました。しかしこの千束原以外の遺跡は失われており、ここだけが往時を偲べる場所になっています。

ここを本陣にしたのは、この一帯で頻発した原野火災(野火)の被害を食い止めるため雑木、雑草を刈り取って野火止めをした「焼き切り」という防火地帯があり、南北に見晴らしがよかったためと伝えられています。

鳥居のすぐ後ろに西向きの小さな拝殿が建っています。

拝殿の後ろには高さ約1,8mの塚が築かれ、その上の石の社が本殿です。この塚の上に床几を据え全軍を指揮している斉昭公の姿が眼に浮かぶようです。

鳥居の後ろに三角点があり、国土地理院地図にも△マークと標高28.8が載っています。公的測量の重要な基準である三角点は見通しの良い場所に設置するとされますので、本陣の場所が現在でも通用していました。
年々減ってはいますが地元の氏子さんたちが大切に守ってきた神社は、今でも旧暦3月21日に祭事を行っているそうです。

追鳥狩の画像を三つご紹介します。

天保12年(1841)の千波原で行われた第2回追鳥狩のイラストを、国会図書館デジタルコレクションの「常磐公園攬勝図誌(松平俊雄 編述)」から借用いたしました。


来年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公渋沢栄一は、斉昭公の七男で最後の将軍徳川慶喜に仕え生涯忠義を尽くしたことで知られています。ドラマの前段で幼少期の慶喜も参加したというストーリーによる追鳥狩のロケが、栃木県の那須で行われたそうです。(NHKテレビより)

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