笠間市小原にある曹洞宗の広慶寺はその「縁起」によると、「文亀二年(1502)正月28日小原城主里見七郎源義俊公開祖養堂禅師ノ道風建寺字附好田十五貫ヲ付シ仏共ニ充ツ」と書かれています。また、宍戸の養福寺仁王像の胎内に納められていた墨書紙片に「文明十二年(1480)2月9日大旦那常陸介源家俊並家国、同子息二郎義治、三郎里景、豊王里元」とあります。(笠間市ホームページ・笠間の歴史探訪)

この里見氏は、江戸時代後期に曲亭馬琴によって書かれた「南総里見八犬伝」が有名ですがあくまでも創作小説の世界で、その題材になった里見氏は清和源氏の新田氏を先祖として、上野国の碓氷郡里見郷で里見氏を称したのが始まりとされています。鎌倉時代には御家人となり、南北朝の戦乱では惣領家の新田義貞の南朝方や反対派の北朝方にも分かれて戦い、その一族は各地に散在しました。

室町時代に常陸国多賀郡手綱郷(高萩市)を地頭として領有していた里見家兼が、永享元年(1429)の頃、鎌倉公方足利持氏より宍戸荘の志多利柳郷(笠間市小原)の地を与えられ、弟の満俊に小原地方を治めさせたと伝わります。しかし永享の乱(1438)で家兼が自害、続いて結城合戦(1440)で子の家基、孫の家氏父子が討死し、上野里見氏嫡流はここで断絶したとされます。一説では家基の遺児義実は安房国に落ち延び、のちに安房里見氏の祖(異説あり)となる話が「南総里見八犬伝」の物語になりました。

その後安房地方に勢力を拡大した里見氏は徳川時代には阿波館山藩12万石の大名になりますが、忠義の代に大久保忠隣失脚に連座して安房の所領の没収と伯耆国倉吉3万石への領地替えを命じられますが実際にはわずか4000石で改易と同じ、しかも嗣子が無かったために断絶となりました。しかし各地に散らばった里見氏の一族は生き残り、越後里見氏、美濃里見氏、出羽里見氏などが知られています。

小原の里見氏は里見七郎義俊が文亀2年(1502)頃、現在の館を中心にした小原城(館)の縄張りを造り上げたといわれ、また同時期に笠間の鳳台院の末寺として曹洞宗の広慶寺を建立しました。

いずれにしてもこの規模の城では、大掾氏、小田氏、江戸氏、佐竹氏の攻め合う戦国時代のこの地に単独で生き残るのは考えられず、小田氏庶流の宍戸氏に従属しその出城的存在だったという説もあります。やがて天正19年(1591)には秀吉により常陸国の所領を安堵された佐竹氏により、周辺の諸城は滅ぼされ、小原城も廃城となりました。
江戸時代には、宍戸は水戸藩の支藩で宍戸藩1万石となりますが、この地は天領と旗本領となったようです。
また各地に残る里見氏のうち、出羽里美氏系統で最上氏の家臣であった里見氏は、改易になった最上家の庶家山野辺氏が水戸藩家老で出仕するのに従い、水戸藩士になっています。幕末の藩内抗争、元治甲子の乱では旗奉行200石の里見四郎左衛門親長が、義兄の戸田忠太夫などの尊攘派に属し、諸生派との戦いで討ち死にしています。

さて、小原里見氏の小原城址は東北約400m、南北約350mの平城です。現在は本丸跡に土塁と水堀の遺構があるだけですが、周辺の民家の屋敷内数カ所にそれらしい土塁も残っています。

本丸跡の地名は古宿、御城稲荷神社と集落の公民館が建っています。

本丸土塁の一部が残っています。北側は長さ26m、角の部分の高さは3m,頂上に小祠堂が建っています。土塁の外側には水堀の遺構がありましたが、平成3年には埋められてしまったようです。

広慶寺墓地にある開基小原義俊の墓です、石塔に「小原院雄山長英大居士」霊位と彫られています。五輪塔と宝篋印塔は修復されています。

雄山長英の名が刻まれた梵鐘は戦時中に供出され、現在の鐘は二代目です。今でも毎朝6時(夏は5時)に撞かれて時を知らせているという情報がありました。

また広慶寺墓地の真ん中には、直径18m、高さ5.6mほどの円墳(高寺二号墳)があり、古墳時代末期の6~7世紀の築造とされています。
この一帯には原始から古代にかけての遺跡が多く、かなり栄えた地であったと推定され、この小原が「常陸風土記」の那珂郡の条にある「茨城の里」で、茨城(いばら)がなまって小原(おばら)となったという茨城の名の発祥の地とか、国府は府中(石岡市)にありましたがその前は小原の地にあったという話もあります。

山門脇の陽だまりにはオオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)が、別名「星の瞳」といわれる由来の花を咲かせていました。


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