シニア花井の韓国余話

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力道山に見る東アジアの複雑な歴史

2011年06月27日 18時50分43秒 | Weblog
(韓国大手新聞、朝鮮日報 11.6.21記事抜粋)
同志社大学の板垣竜太准教授、『歴史批評』誌で分析
 巨漢の西洋人を空手チョップでなぎ倒した在日朝鮮人プロレスラーの力道山(1920-63)=写真=。50年代から60年代にかけての力道山ブームは、帰化した先の日本はもちろん、母国の韓国・北朝鮮でも同様に発生した。ところが英雄のイメージは、ヨクトサン(韓国)、りきどうざん(日本)、リョクトサン(北朝鮮)という呼び方の違いと同じように、それぞれ異なっていた。
 同志社大学の板垣竜太准教授は、季刊誌『歴史批評』夏号で「東アジアの記憶の場としての力道山」を分析した。板垣准教授は、力道山(咸鏡南道新豊里出身、本名キム・シンラク)という一人の人物が、国ごとにそれぞれ異なる見方をされているところに「歴史的リアリティー」があり、それは「朝鮮に対する日本の植民地支配と人種主義あるいは民族差別、冷戦およびポスト冷戦の東アジア史」だと語った。
■日本の国民的英雄としての力道山
 日本での力道山は、戦後の国民的ヒーローだった。相撲の力士からプロレスラーに転向した後、53年に日本プロレスリング協会を設立した。54年2月、米国からシャープ兄弟を招いてタッグマッチを行った。赤い頭に青い目、胸と腹が毛むくじゃらのシャープ兄弟は「太平洋戦争で日本を打ちのめした米国人の典型」だった。「日米戦争」として演出された最初の一戦で、力道山は空手チョップで相手を倒した。その後、力道山は「反則ばかり繰り出す外国選手に立ち向かい、最後には勝利する日本のレスラー」として人気を集めた。在日朝鮮人という事実は伏せられた。当時スポーツニッポンの記者だった寺田氏は「ヒーローは日本人でなければならない時代だった。当時、(国籍を)あえて明らかにすることは、本人も私も読者も望んでいなかった」と語った。
■韓国が生んだ世界的レスラー
 60年代、日本のテレビ放送を受信できた釜山を中心に、プロレスブームが押し寄せた。「頭突き王」こと金一(大木金太郎)も「日本との間を行き来する漁師から力道山の話を聞いて、自分の人生は180度変わった」と語った。力道山は63年1月、国賓待遇で来韓した。5・16軍事政権(1961年5月16日。朴正熙〈パク・チョンヒ〉陸軍少将〈当時〉らによる軍事クーデターで樹立された政権)の首脳部は喜んだ。メディアも「咸南(咸鏡南道)出身の韓国人」というプロフィルと共に、大いに書き立てた。力道山は、母国の発展に貢献しようとする「世界的な韓国人レスラー」と位置づけられた。
■金日成は「烈士」の称号を贈った
 59年、「帰国事業」による在日朝鮮人の北朝鮮への集団移住が始まったことに伴い、北朝鮮にも力道山(リョクトサン)の武勇伝が広まった。平壌では映画も上映された。金日成(キム・イルソン)首相(当時)は63年7月「力道山が米国のやつを倒す場面は、実に痛快だ。これから幹部たちにこの映画を見せたいので、フィルムをきちんと保管しなければならない」と語った。金日成首相は、力道山を日帝・米帝に立ち向かう「愛国烈士」だと褒めた。後に分かったことだが、力道山も北朝鮮に接近していた。北朝鮮に残していた親族と連絡がつき、金日成の50歳の誕生日(62年)にはベンツをプレゼントした。朝鮮中央芸術団の女性と同居したこともあった。ただし、日本や北朝鮮では非公表とされた。北朝鮮で力道山が「大衆的ヒーロー」になったのは、84-85年のことだ。北朝鮮の週刊誌『統一新報』は、「彼にも祖国はあった」と題する記事で、力道山について▲強制的に日本人に戸籍を変えられ▲同僚力士からの民族差別のため「倭奴(日本人の蔑称)式の戦い(=相撲)」から身を引き▲「敵地」米国に渡って空手チョップで全ての敵を倒した-と紹介した。北朝鮮は、力道山の死をめぐっても、北朝鮮寄りの行動に当惑した「米日反動」暴力団が加勢したという陰謀論を繰り広げた。91年に日朝国交正常化交渉が始まると、北朝鮮は「日帝の犠牲者・力道山」を再び取り上げた。95年以降、力道山の伝記や漫画、映画、記念切手、彫像、さらには顔写真が付いた「力道山酒」まで発売された。
 力道山のイメージは、今でも変化し続けている。05年を前後して、韓日は映画『力道山』(ソル・ギョング主演)を、中朝は映画『力道山の秘密』をそれぞれ共同製作した。板垣准教授は、こうした「記憶の複数性」こそが、東アジアの不協和な現実そのものだと指摘した。






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