友だちが何かに挑戦するとき、日本語だと普通に「頑張って!」と励ましの声を掛ける。これと全く同じ状況のときに、英語で声援を送ろうものなら「Good luck!」になるし、スウェーデン語でも「Lycka till!」(リュッカ・ティル(ティルにアクセント))という対応語がある。だから、「頑張って!」=「Good luck!」=「Lycka till!」って考えておけば、日常では全然支障は無いけれど、突き詰めて考えてみれば、とても大きな文化の違いを表している気がするのだ。
英語の「Good luck!」にしても、スウェーデン語の「Lycka till!」にしても、和訳をすれば「幸運を!」になる。だから「頑張って!」とは、まるで意味が違う。
ある人が何か大きなチャレンジに挑む。こういう時って、英語やスウェーデン語の感覚からすると、本人がそれなりの努力をすることも重要だけど、それ以上に成功・不成功を決める要因があるとすれば、それは「時の運」だ、と考える。だから、うまくいけば、心から「おめでとう」と祝福できるし、たとえ失敗しても「残念だったね。運が味方しなかったんだ。」とあくまで運が味方しなかったからと理由付けすることができるし、本人も開き直れるかもしれない。
(余談だが、気の知れたスウェーデンの友達に半ば冗談で「おめでとう。運がよかったね!」と何かの成功を讃えたことがあるが、成功をあからさまに運だけのせいにしちゃうと、逆に「いや、僕の努力と才能のおかげかも・・・」とまるで言いたげな、複雑な表情をされることもあるから、人間の心って、なかなか複雑!)
これに対し、日本語の「頑張って!」のほうは、本人の努力いかん(如何)が成功を決める大きな鍵であって、ここには運の入り込む余地があまり無いような気がする。だから、物事がうまくいったときはその人個人の努力を讃え、それがその人の「栄誉」になるのだろうけれど、ひとたび失敗すると、なかなか救いようが無い。「頑張る」ことが成功の鍵という前提の元では、失敗したのは本人の頑張りが足りなかったからに違いない。もちろん周りの人は慰めようとするだろうけれど、果たして本人は納得するかどうか。やはり、自分の努力が足りなかった、と悔やんでしまうかもしれない。だから、日本文化の根底にあるメンタリティーには、成功・不成功の責任を、その人個人に着せようとする、ある意味、かなり厳しい面があると思う。
毎週月曜日には文化センターのようなところで、主にスウェーデンの高校生を対象に日本語を教えているが、このネタはよく持ち出す。つまり、日本語の「頑張って!」は厳密に言うと、スウェーデン語の「Lycka till!」じゃなくて、むしろ「Kämpa på!」(英語に直訳すれば「Struggle on!」つまり「奮闘しろ!」)だよ、と説明するのだ。そうすると、この言葉の響きのあまりの強さに、みんな圧倒されるのだ。スウェーデン語ではよほどのことが無い限り「Kämpa på!」という強い表現は使わない。
------
なーんて、思っていたら、最近はどうやら事情が変化しつつあることも事実のようだ。ある国際比較を週末に新聞で目にした。「人生で成功するための重要な要素は何か?」を様々な国の若者がどう捕らえているかをアンケート調査したものだ。
上のグラフでは、
(赤)外見がいいこと
(水色)手にできるすべてのチャンスを生かすこと
(青)一生懸命働く
(黒)人間的ネットワークを築く
ということが、人生で成功するための重要な要素である、と答えた若者の割合をグラフで示したものだ。
これを見ると驚くことに、日本人のお得意な「頑張る」ことに文字通りつながる[水色:チャンスを生かす]と[青:一生懸命働く]の長さが、他の国々と比べても、それほど顕著ではなく、むしろ短いほうだということが分かる。つまり、一つの解釈の仕方によれば、日本の若者は、頑張ってもしょうがない、という諦めに近い落胆を抱いている、と言うことなのかもしれない。これは、いい意味に取れば、生活水準が豊かになったために、一昔前の“立身出世”的な価値観をもはや美徳とされなくなった、ということかもしれないが、一方では、どうせ頑張ったって報われない、という一種の諦めに似た閉塞感を社会が若者に与えている、ということかもしれない。さらに、若者にとって見れば、努力とはあまり関係ない[赤:外見がいいこと]のほうが、人生にとってはむしろ重要、と捉えているようなのだ。
っていうか、よく見てみると、[青:一生懸命働く]ことが、人生で成功する鍵である、って考えている若者は、日本が最低だよ! しかも、福祉が手厚いから労働インセンティブが低い、なんて日本の巷でもてはやされている北欧諸国(スウェーデンも含めて)より、かなり低いよ。「努力したもの(成功したもの)が報われる社会、云々」と、競争奨励・弱者切捨て的な政策を行ってきた日本だけれど、そのメッセージが社会全体に伝わるどころか、むしろ若者は努力してもしょうがない、と思ってしまった社会に、果たして未来があるのか? かなり危機感を抱かざるを得ないように思う。
英語の「Good luck!」にしても、スウェーデン語の「Lycka till!」にしても、和訳をすれば「幸運を!」になる。だから「頑張って!」とは、まるで意味が違う。
ある人が何か大きなチャレンジに挑む。こういう時って、英語やスウェーデン語の感覚からすると、本人がそれなりの努力をすることも重要だけど、それ以上に成功・不成功を決める要因があるとすれば、それは「時の運」だ、と考える。だから、うまくいけば、心から「おめでとう」と祝福できるし、たとえ失敗しても「残念だったね。運が味方しなかったんだ。」とあくまで運が味方しなかったからと理由付けすることができるし、本人も開き直れるかもしれない。
(余談だが、気の知れたスウェーデンの友達に半ば冗談で「おめでとう。運がよかったね!」と何かの成功を讃えたことがあるが、成功をあからさまに運だけのせいにしちゃうと、逆に「いや、僕の努力と才能のおかげかも・・・」とまるで言いたげな、複雑な表情をされることもあるから、人間の心って、なかなか複雑!)
これに対し、日本語の「頑張って!」のほうは、本人の努力いかん(如何)が成功を決める大きな鍵であって、ここには運の入り込む余地があまり無いような気がする。だから、物事がうまくいったときはその人個人の努力を讃え、それがその人の「栄誉」になるのだろうけれど、ひとたび失敗すると、なかなか救いようが無い。「頑張る」ことが成功の鍵という前提の元では、失敗したのは本人の頑張りが足りなかったからに違いない。もちろん周りの人は慰めようとするだろうけれど、果たして本人は納得するかどうか。やはり、自分の努力が足りなかった、と悔やんでしまうかもしれない。だから、日本文化の根底にあるメンタリティーには、成功・不成功の責任を、その人個人に着せようとする、ある意味、かなり厳しい面があると思う。
毎週月曜日には文化センターのようなところで、主にスウェーデンの高校生を対象に日本語を教えているが、このネタはよく持ち出す。つまり、日本語の「頑張って!」は厳密に言うと、スウェーデン語の「Lycka till!」じゃなくて、むしろ「Kämpa på!」(英語に直訳すれば「Struggle on!」つまり「奮闘しろ!」)だよ、と説明するのだ。そうすると、この言葉の響きのあまりの強さに、みんな圧倒されるのだ。スウェーデン語ではよほどのことが無い限り「Kämpa på!」という強い表現は使わない。
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なーんて、思っていたら、最近はどうやら事情が変化しつつあることも事実のようだ。ある国際比較を週末に新聞で目にした。「人生で成功するための重要な要素は何か?」を様々な国の若者がどう捕らえているかをアンケート調査したものだ。
上のグラフでは、
(赤)外見がいいこと
(水色)手にできるすべてのチャンスを生かすこと
(青)一生懸命働く
(黒)人間的ネットワークを築く
ということが、人生で成功するための重要な要素である、と答えた若者の割合をグラフで示したものだ。
これを見ると驚くことに、日本人のお得意な「頑張る」ことに文字通りつながる[水色:チャンスを生かす]と[青:一生懸命働く]の長さが、他の国々と比べても、それほど顕著ではなく、むしろ短いほうだということが分かる。つまり、一つの解釈の仕方によれば、日本の若者は、頑張ってもしょうがない、という諦めに近い落胆を抱いている、と言うことなのかもしれない。これは、いい意味に取れば、生活水準が豊かになったために、一昔前の“立身出世”的な価値観をもはや美徳とされなくなった、ということかもしれないが、一方では、どうせ頑張ったって報われない、という一種の諦めに似た閉塞感を社会が若者に与えている、ということかもしれない。さらに、若者にとって見れば、努力とはあまり関係ない[赤:外見がいいこと]のほうが、人生にとってはむしろ重要、と捉えているようなのだ。
っていうか、よく見てみると、[青:一生懸命働く]ことが、人生で成功する鍵である、って考えている若者は、日本が最低だよ! しかも、福祉が手厚いから労働インセンティブが低い、なんて日本の巷でもてはやされている北欧諸国(スウェーデンも含めて)より、かなり低いよ。「努力したもの(成功したもの)が報われる社会、云々」と、競争奨励・弱者切捨て的な政策を行ってきた日本だけれど、そのメッセージが社会全体に伝わるどころか、むしろ若者は努力してもしょうがない、と思ってしまった社会に、果たして未来があるのか? かなり危機感を抱かざるを得ないように思う。
あまり読まずにコメントを。
頑張って、は嫌いです。
頑張っている人に、頑張ってって言うのは、気が引けます。
すでに、頑張ってるわけだから。
生徒には、頑張るんじゃなくて、「顔晴る」と言っています。
こっちのほうが、何か素敵でしょ?
気分の問題じゃん!って言われますが、頑張ってって声かけも気分の問題だからね。
せめて、脳裏に描かれる漢字だったり、持っている意識が顔晴れであれば、嬉しいと思ってます。
自分もやはり『頑張って』ってのはあんまり好きではないですね。上の方の意見に同感です。極力話すときには使わないようにしていますね。
>[青:一生懸命働く]ことが、人生で成功する鍵である、って考えている若者は、日本が最低だよ!
これに関しては、高校の進路決めのときなんかによく現れていましたね(笑)自分はこのサイトを見てから(!?)ある程度やりたいことが定まって、高校卒業後は浪人して大学進学をしようと思っています。が、これを何人かの友人に話したところ『そんな浪人したって、何にも変わんないよ』『大学かぁ~勉強めんどくせーなぁー』(他ネガティブ発言多数)
・・・あと10年以内に何らかの政策を打ち出さないと、ホントここはヤバイと思います。現場がそう感じています。。。
しっかりやる人が少なくなって、誰も見ていなければサボって、後で結果を見ればしっかりやっていなかったことがばれるという手合いのことが増えています。しかも、自分のことなのにそれがどうしたという態度がまた、しっかりしていない。
勉強が面倒くさい人にさせなくてもいいです。ただし、それで実入りが少ないことは徹底しましょう。年金も先に出さない人には後で絶対出さないように。
>本人の努力いかんが成功を決める大きな鍵であり
頑張ることで「運までも何とか出来る」と考える
風潮があるように思います。
120%の力を出しきる、でもいつもこれだと疲れてしまいますよね。
すみません書き忘れて再度コメントしました。
なるほどね! なかなか面白い発想。口で言っただけでは違いが分からないので、説明が必要かもしれませんが。
その通り! 頑張っている人は既に頑張っているもんね。その必要性は本人が一番よく知っているはず。
>やりたいことが定まって、高校卒業後は
>浪人して大学進学をしようと思っています。
えっ、そんな影響を与えてしまったの?
私が思うに、今進学できるなら、してしまったほうがいいと思うよ。将来のことについて考えるなら、一度大学に入ってしまって、幅広い人間関係や様々な刺激の中であれこれ悩んだほうが、もっと大きな成果が得られる気がしますよ。
実際に、頑張っても何も変わらない、と思っている若い人が増えているのですね。「外見」に投資したほうが報われると思っているのかな?
だから「うまくいくといいね」くらいがいいのかな、と思ったりしました。
引越しの準備は順調に行っていますか?
>頑張ることで「運までも何とか出来る」
>と考える風潮があるように思います。
「精神」の力で何でも叶う、っていう考え方は日本で特に強い(強かった)と思います。このことに関連して、ふと思い起こすのは、戦前の陸軍が「精神主義」に頼りすぎたために、戦争中に人命を多く無駄にしたことです。行き過ぎると、国をも滅ぼしてしまいます。
正確には、「何に投資しても報われないし、そもそも投資する財もない。」ってところでしょうか。日本の、特に若年層の閉塞感はちょっと想像を絶するところがありますね、接してて。