「男の隠れ家ー陶酔庵」日記

いろいろあってまだ生きてます。世捨て人を気取りながら、その高みにはほど遠い俗世の世迷い人生、命だけが通り過ぎてゆきます。

私的ホームレス論ー究極の放浪

2006年10月10日 | 「放浪」への憧れ



今回の投稿は、あくまで独断的偏見に満ちた視点から述べるものです。

4月5日付、投稿記事の中で角田みつよ氏のエッセイ、「旅先三日目」を紹介したが、
その中にあった「持っていると思い込んでいるもの、持っている気になっているもの」
について考えました。

一般的には、名誉、地位、財産、仕事、家、家族(の健康、命)、友人、約束、
銀行口座、名前、年齢、などなど。
私などはその中のどれをとっても、一つでも失くす事に日々、おびえながら生きています。

そんな時、私の頭にいつも「ホームレス」という言葉がよぎります。
もちろんこの言葉は私にとって「究極の放浪」を意味するわけですが、
ある意味で彼らは、この「持っていると思い込んでいるもの・・・」を全て捨てるか、
失くしたかしたわけです。その絶望のどん底で今なお、生きています。

私のような弱い人間なら死をもすら考えるでしょう。
そして現実に自らの死を選んだ人が何人もいることでしょう。

しかし彼らは何はともあれ今、生きています。

最近、特にこの「今、生きている」ということが非常に意味のあることのように思えます。
そういう意味で私はいつも「ホームレス」の強さに憧れを抱くとともに、
その強さに敬意を持っています。

壇一雄も高田渡もランボーも「持っていると思い込んでいるもの・・・」
をいつでも捨てられた人なのでしょうか。

いや「何も持たないこと」の楽しさを知っていたのではないでしょうか。


2005年4月29日掲載


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