yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

賊軍

2015-10-06 05:04:51 | 歴史
賊軍とは、「官軍」の対語で、日本史上、その正当性を否定する言葉です。たとえば、幕末、維新後に天皇の意思に沿わない側の軍を指します。「朝敵」とほぼ同じ意味で、賊軍の語は、多くは幕末、明治維新後に用いられました。官軍、賊軍は、その時々の政局において、天皇側か否かで、呼ばれる呼称であり、足利尊氏のように、賊軍になったり官軍になったりした人物もいました。長州藩の場合も、1863年8月18日の文久の政変で京から追放されて賊軍となった時代がありました。半藤一利氏は「賊軍の昭和史」の中に下記のように書いています。

司馬遼太郎さんの言葉を借りれば、戊辰戦争は幕府側からみれば「売られた喧嘩」なんですよね。「あのときの薩長は暴力集団にほかならない」と、これは司馬さんの言葉です。ですから、本来は官軍も賊軍もない。とにかく、薩長が無理無体に会津藩と庄内藩に戦争を仕掛けてきたわけです。今流の言葉でいえば、まさに侵略戦争ですよ。侵略に伴って、かなり残酷なこともやっていますしね。奥羽鎮撫使の世羅修蔵の動きなど、仙台藩や米澤藩、それに会津藩などへの謀略で攻撃を仕掛けています。では、賊軍とされたのはどの藩か、また、どうやったときに賊軍といわれたか、このことを考えてみなくちゃならない。
戦争というのは面白いもので、攻めるほうがいくらやって来ても、受けるほうが立たないと戦争にならないんですよ。薩長を中心とする西軍の連中が錦の御旗を押し立てて、官軍を名乗
って大挙襲ってきた。このときの薩長が東北諸藩に突きつけた要求は、要するに、何も悪いことをしていない会津と庄内を裏切って法外な金を支払えというものでした。つまり、薩長に隷属しろというに等しかったわけです。これに対して、無抵抗で降伏するのは武士の面目が立たなかったでしょうし、いろんな各藩の事情もあったでしょう。無理に受けて立ち上がったわけですね。それで戦争となり、受けて立った東軍の藩は賊軍にされたんです。

 「勝てば官軍」という言葉もありますが、1863年には賊軍であった長州藩は、5年後の1868年には官軍となり、戊辰戦争に勝ち、今日まで、権力の中心にいました。
 一方、所謂、賊軍出身者にも偉大な人物がいました。
    山川健次郎(会津藩、東大総長)
    高橋是清 (仙台藩、蔵相、首相)
    米内光政 (盛岡藩、首相)
    井上成美 (仙台、海軍大将)
    山本五十六(長岡藩、海軍)
    今村均  (仙台藩、陸軍大将)
    鈴木貫太郎(関宿藩、首相、太平洋戦争を終結させた)


             半藤一利 「賊軍の昭和史」東洋経済新報社
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 澄邁驛通潮閣 蘇軾 | トップ | 不測の事態 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事