yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

柳生新陰流

2008-03-23 09:34:43 | 歴史

戦国時代、上泉(こういずみ)伊勢守信綱は愛州移香斎から陰流を学び、自らも工夫を加えて新陰流を拓きました。柳生石舟斎宗厳(むねよし 1527-1606)は伊勢守との試合に敗れ、その弟子の疋田豊五郎(ぶんごろう、後に九州で疋田陰流を起こしました)にも勝つことができなかったので、即刻、伊勢守に弟子入りしました。その後、剣の道に磨きをかけ、柳生新陰流の開祖となりました。「無刀の位」を編み出し、修業中の宮本武蔵にも「無刀の位」で負けなかったと言われます。<o:p></o:p>

勝てない武蔵に、石舟斎はこう言いまいた。<o:p></o:p>

「貴殿は拙者との立の合い最中に、風の音や鳥の声が聞こえたか。それが聞こえないようでは、相手の動きを予測して動くことができない。」<o:p></o:p>

武蔵は己の未熟を悟り、一層修業に励んだとのことです。<o:p></o:p>

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戦国時代は甲冑を着た剣法が主流であり、腰を低くして「沈なる構え」をとるのが普通でしたが、石舟斎は「直立(すぐた)ったる位」を考案し、より自由な道作を可能にし、新陰流を確立しました。立合いの時、直立または、やや前傾する姿勢を取るのが新陰流の特徴です。<o:p></o:p>

石舟斎の長男の厳勝(よしかつ)は戦で負傷して剣が使えなかったので、石舟斎<o:p></o:p>

は五男、宗矩(むねのり)を徳川家康に推挙し、自分は大和国柳生に隠棲しました。宗矩は但馬守を名告って将軍への剣術指南のかたわら「活人剣」を唱えて幕閣として政治手腕を振るい、大名にまで出世し、江戸柳生の元になりました。宗矩の子供には十兵衛などの逸材がいましたが、柳生新陰流は将軍家以外には剣を教えないお留め流でもあり、江戸柳生は後継者に恵まれなかったので次第に衰退しました。<o:p></o:p>

一方、厳勝の子供の兵庫助利厳(としよし)は祖父、石舟斎とよく似た人物で<o:p></o:p>

剣道一筋に修業を積み、尾張徳川家に仕え、尾張柳生の元となりました。兵庫助の三男、連也斎、厳包(よしかね)は天才剣士であり新陰流の道統を継ぎました。そして尾張柳生は、尾張徳川家の庇護の元で隆盛を極めました。<o:p></o:p>

ました。<o:p></o:p>

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