yoshのブログ

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最後の会津武士 町野主水(もんど)

2010-04-20 15:31:12 | 歴史
  町野家は豊臣秀吉の腹心であった蒲生氏郷の家来でした。天正18年(1590年)に氏郷が秀吉の命令で会津に入部した時に主君に従って会津に移ってきました。それが町野家の祖、町野左近助幸仍(ゆきなお)でした。ある時、主君氏郷から白柄で槍穂三尺の大身の槍、「宗近」(むねちか)の銘のある名槍を下賜されました。それを家宝として、保科正之が会津藩主になると槍を携えて保科家に仕えました。
さて町野家の久吉は若年ながら宝蔵院流の槍術の達人でした。久吉はこの「宗近」という名槍を兄の源之助から借り受けて、兄の任地の小出島(越後)に出陣しました。そこで、この先祖伝来の槍をもって松の木にぶらさがる懐紙を少しも微動させることなく突き、一瞬のうちに三つの穴を開けてみせ、人々を驚かせたという事です。ところが北越戦争において、三国峠(越後と上野の国境)の戦闘で久吉は十代の若さで討ち死にしてしまい、この槍の行方はわからなくなってしまいました。一方、兄の町野源之助は戊辰戦争の後は、名を主水とあらため、民政局取締という県の役職について、旧藩の人々の面倒をみたりして若松で暮らしていました。
ある時、長州出身で政府の顕官となった品川弥二郎子爵が福島県を視察する合間に若松に立ち寄り、東山温泉向滝旅館に町野主水を呼び出しました。品川弥二郎は「僕は戊辰戦争で戦死した尊皇攘夷の志士たちの遺品や資料を収集して京都に「尊譲堂」を建立しました。その過程で貴殿のご舎弟久吉殿が所持しておられたという槍が発見されました」と言いました。目の前に出された槍を主水が見ると、確かに「宗近」の銘がある大身の槍で町野家の家宝に間違いありませんでした。品川は続いて「これが会津藩町野家伝来の槍とわかり、貴殿が矍鑠としておいでとわかった上は、この槍を貴殿にお返しすべきと考えて出向いてきました。」と語りました。それに対する主水の返答は驚くべきものでした。
「御厚志はかたじけないが、それだけで充分でござる。戦場にて失いしものを、武士たる者が畳の上で受け取るわけに参らぬのだ。」
品川は唖然として主水のいかつい風貌を見つめました。しかし主水は、
「失礼いたす。」
と、ぶっきら棒に言い、悠然と退席しました。やがて、このやりとりは会津藩士の間に広まり「これぞ千古の快言である」「まさに会津武士道に徹した町野主水ならではの啖呵というものだ」と大評判になりました。そして町野主水に「最後の会津武士」いう異称がたてまつられました。
主水はこうした評判を耳にすると、むっつりとした面もちで妻のマツに言いました。
「おれは一介の武弁でむつかしいことは何もわからぬ頑固者にすぎぬ。おれが死んだら戒名は「無学院粉骨砕身居士」とな。」
さて主水の死後、若松警察の制止があったにもかかわらず、葬儀は遺言通りに行われました。先頭は主水の亡骸を莚でつつみ縄で縛り、次いで抜身の槍、抜身の刀、僧侶、家族の順で全員徒歩という壮絶なものでした。さすがに喪主の武馬は主水が自称した戒名は使わず、菩提寺の融通寺から頂いた別の戒名「武孝院殿顕誉誠心清居士」を使いました。会葬者も多く、町野家から融通寺まで続く葬列は盛大きわまるものであったということです。
戊辰戦争の後、討ち死にした会津藩士の遺体が埋葬を許されずに放置させられたことを、主水ら生き残った藩士はどれほど無念に思ったことでしょう。主水の葬列はそうした仕打ちに対する抗議の表現だったのでしょう。
なお、町野家の槍は現在、鶴ケ城の博物館にあるということです。
               中村彰彦 「その名は町野主水」 新人物往来社
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