yoshのブログ

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西郷隆盛像(山形県)

2021-05-08 06:14:57 | 歴史
西郷隆盛の像は東京の上野公園にあるのが有名ですが、その他、鹿児島市や
酒田市(山形県)にもあります。(写真 下) その像は、山形県酒田市の南洲公園にあります。左は庄内藩の家老、菅実秀(すげさねひで)で、右は西郷隆盛の対座像です。ところで、なぜ山形県に西郷像があるのか不思議に思われます。

戊辰戦争で庄内藩は、会津藩など東北・北陸の31藩と「奥羽越列藩同盟」を結び、新政府軍と戦いました。庄内藩は、北前船で財をなした豪商、本間家の支援もあり、最新の武器をそろえ、秋田藩、新庄藩などを相手に奮戦します。負けることなく、戦況を乗り切りますが時勢には逆らえず、厳しい処罰を覚悟の上で慶応4年(1868年)9月に新政府軍へ降伏を申し出ました。しかし、参謀の黒田清隆より伝えられた庄内藩への処分はきわめて寛大なものであったといいます。 庄内藩家老である菅実秀は明治2年(1869年)のはじめ、新政府軍参謀であった黒田と東京で面会し、その寛大な措置へ感謝の意を伝えました。しかし、黒田は、その指示は自分ではなく、西郷隆盛によるものだといいました。黒田も含め新政府軍の中では庄内藩の反逆の危険性を考え、藩主は隣国の大名などに預けるべきだという意見が多くあった中、西郷は一貫して寛大な措置を指示したというのです。この話をきいた菅は、西郷隆盛が庄内の恩人であることを知り、その懐の広さに感銘を受けたのです。
菅は、この後、明治4年(1871年)に西郷との対面が叶います。この酒田市にある南洲翁・西郷隆盛をまつる「南洲神社」は、長谷川信夫氏が創建しました。彼もまた西郷隆盛の教えに学び、それを心の支えとし、憧憬を寄せた一人です。長谷川氏は、昭和44年(1969年)に岩波文庫版の「南洲翁遺訓」を私費で頒布し、没する前年には、その数は2500冊に達しました。昭和51年(1976年)には「財団法人荘内南洲会」を設立し、翌年にこの南洲神社を創建。境内には「敬天愛人」を刻んだ石碑のほか、西郷隆盛と菅実秀の対座像などがあります。また、南洲会館、南洲文庫も運営され、南洲翁に関する遺墨、遺品、研究資料をはじめ、明治維新関連の資料や庄内出身の偉人傑士の書画など数多くが収蔵されています。





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