yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

照姫の和歌 その2

2008-07-23 10:07:14 | 歴史

照姫は2000首もの和歌を詠んでいます。それは、春、夏、秋、冬、恋、雑の部に分類されており、会津若松市の渡邊明氏により大切に保存されています。<o:p></o:p>

容保公25歳のときの喜びの歌<o:p></o:p>

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   はたちあまり五とせにならせ給ふをことほぎ侍りて<o:p></o:p>

  ことしより君がかさねん万代をしるくもこたふともづるのこゑ<o:p></o:p>

  すゑとほき君にひかれてわか松もいく十かへりの春むかふらん<o:p></o:p>

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容保公は桜田門外の変の事後処理に奔走し、その功により、1860年に左近衛権中将に昇進しました。照子は早速喜びの歌を贈りました。<o:p></o:p>

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少将の君中将の御位に登らせ給ふを祝し参らせて<o:p></o:p>

  松がえにむれゐる鶴も此君のみをことほぎて千よよはふらん<o:p></o:p>

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明治6年、照子がわが子のように慈しんでいた喜徳(のぶのり、第十代會津藩主)が実家水戸家に帰り、明治9年にフランスに留学する折には、次の餞別の歌を贈りました。<o:p></o:p>

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  よに広くふみ学びえて久方の雲ゐに高く名をばあげてよ<o:p></o:p>

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 この頃ようやく行動の自由を取りもどした照子は歌を詠んでは、人々ととり交わし、琴を弾き、笛を吹いて平穏な日々を過ごしました。<o:p></o:p>

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時代は下り、明治17年に波乱の生涯を閉じた照子の13回忌が行われ折、実弟保科正益(まさあり)の妻で歌人である保科節子によって鎮魂の歌集が編まれました。その歌集には御歌所長官・高崎正風により「かつらのしづく」という題がつけられました。<o:p></o:p>

そこには北白川宮能久(よしひさ)親王妃・富子、近衛篤麿ご夫妻、鍋島直大・栄子ご夫妻、前田利継・郎子(さえこ)ご夫妻らが歌を寄せております。<o:p></o:p>

照子のもっとも身近な人であった松平容保公は、この時明治26年には病没しており追悼歌がありませんが、ご子息松平健雄氏が父に替わって追悼歌を贈っています。<o:p></o:p>

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  今更に返らぬものと知りながらかへしてしがな君ましつ世に<o:p></o:p>

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柴桂子著『会津藩の女たち』恒文社<o:p></o:p>

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コメント
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