陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の眇(すがめ)」(二十六)

2009-09-30 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空

巫女の修行を再開したのは、それからすぐだった。
中断していたのは一箇月ほど。すでに六月になり、薄手の衣替えをしていた季節だった。

そのとき、千歌音ははじめて正式の巫女装束に袖を通した。
姫子とおなじかたちの白の小袖に、紅袴の装束。長い黒髪は後ろでに束ね、髪留めにしたのは水引である。水引とは、細い紙縒(こより)に糊をひき乾燥させて固くした紙のこと。長い筒状の和紙で髪を包み、紅白の水引で縛る。新しい衣を纏うと、身も清められるような心地がした。髪をまとめた和紙には、姫子の手による呪符の絵が描かれていた。髪を後ろで結ってくれたのも姫子だった。かつての姫庫(ひめぐら)でのときのように、背中の傷を気にすることもなく、髪をいじられることにも不快はなかった。姫子に触れられると、姫子の強さに、温かさに、包まれている、たしかな手応えがあった。護身用なのか、ひと振りの太刀まで携えた。

千歌音があの暗闇の獄に端座するとすぐに、例によって、こころを脅かす悪魔の囁きが聞こえはじめた。
首を締め上げるような息苦しさで魑魅魍魎たちは襲ってきた。魑魅魍魎たちはしだいにかたちを構築し、あのしたたかに巨大な神の化身となった。その大きな手のひらが開こうとしていた。錆びついた鉄の塊が擦れ合うような仰々しい音の中に、千歌音を掴まえんとする。

そのときだった。
千歌音はゆったりと唇をゆるませて、微笑んでみせた。千歌音はそのとき、そこにはいないはずの姿を思い浮かべていた。それは紅い巫女装束をまとった姫子だった。幻の姫子は凛々しく、慈しみ深く、そして愛おしかった。彼女こそは、暗闇の中でも輝きを失わぬお陽さまだった。姫子のことを想うだけで、千歌音には不思議な力が湧き上がってきた。この力はいったいなんだろう。名づけようもない、この働きは。千歌音は胸に垂らした勾玉の首飾りを握りしめていた。

巨体の魔神は千歌音の目前で、その巨大な手のひらを開いた。
ひと一人はゆうに握りつぶせそうな大きさだ。だが、そこで慟哭し、動きをぴたりと止めた。ぐぎぎぎ、ごごご。不気味な軋みをあげて、巨神はなにかと抗っているかのように身悶えした。巨神はうぉおおおおおお、と唸り声をあげて、あらぬ方角に拳をふりあげはじめたのだった。だが、この暗闇にはなにもない。空っぽの空間では、なにも壊す物がない。かの巨体のふるう拳は受けとめるものもないまま、空振りし、ますますその虚しさがゆえに動きは乱暴になる。だが、次第にその動きは沙汰やみになった。

血しぶきを浴びたまま野に放逐された鉄刃を思わせる、鎧武者の巨人。
千歌音にはその禍々しい姿に見覚えがあった。姫子とふたり、山道を歩いた時に見かけたあの巨悪な影ではなかったか。あのときは、姫子に庇ってもらって、なす術もなく、やり過ごしただけだった。しかし、今から思えば、なぜあの巨神(おほちがみ)は、みすみすふたりの娘を見逃したのか。いまなら、その答えがわかる。

「──控えよ!」

その言葉一つで、洞内のおぞましい空気が変わった。自分でも驚くくらいに、放たれた矢のような鋭く飛んでいく声だった。

まさか、ほんとうに成功するなんて。
腕を右へまっすぐと差し向けたまま、千歌音はじんわりとしたものが胸のなかに落ちひろがったのを感じざるを得ない。それは、達成感でも、征服感でもなかった。喩えていうならば、万民の命を救う妙薬を燃えさかる炎から拾い出した心地に等しい。泣いて逃げてばかりだった私が、あんな大きな存在を動かしてしまうなんて。無我夢中でやったこととはいいつつ、その結果が信じられない。それでも、これで世界が救われる未来は信じられた。首から下げられた勾玉の輝きが、あたりをなおいっそう明るませている。

片膝をついた巨神はしおらしく打ち崩れ、頭を垂れていた。
まるで大きな犬のようでもあった。千歌音はその木偶の坊の頭にそっと手を添えた。恐怖や憎悪こそが、まさにこの巨体を大きくし、力を与えていた好餌だったのだ。

「貴方、名前は?」

巨神はまがまがしい歯が並んだ口もとを開いて、なにごとかを発した。

「そう、貴方。タケノヤミカヅチって言うのね…」

千歌音が頭を撫でさすと、その怪物はうなだれたように大人しくなってしまった。

千歌音には見えた。その怪物にこころを乗っ取られた者の、あわれな人生の一部が────それはこの村でかつて武勇を誇っていたひとりの若者だった。彼女の恋人が村に棲む蛇の怪物に捧げられそうになったと聞くや、ここに乗り込んできたのだった。だが、それは嘘だった。恋人は都の貴人へ嫁ぐことになり、男が邪魔になったのだ。彼は、あろうことか、想い人の親たちに嵌められてここで誅されてしまったのだった。その屍体はこの溜め池に棄てられ、すでに溶けてしまったのだろう。だが、その無念だけは溶かされることはなかった。信じていたはずの人間に裏切られる。その怨念が消えることなどなかった。怨念には神の名が与えられ、その荒御魂(あらみたま)を鎮めるために、祀られていたのだ。



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