陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の眇(すがめ)」(十七)

2009-09-30 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空

すでに陽は中天からやや西へ傾き、ふたりの巫女の影も薄らいでくる。
姫子はなかなか目覚めなかった。さすがに外でというのはないが、千歌音は姫子と添い寝するのは慣れっこになっている。姫子がお隠れ島の牢屋から戻って養生したときも、介抱したことはある。しかし、姫子はいつも千歌音が去るのを、目を見開いたまま、見送ってくれた。姫子が目を閉じて臥せっているのを、魂逸りのときしか、千歌音は目にしたことがなかったと言っていい。

思い起こせば、二人の出会いも、また珍妙なものであった。
古井戸の釣瓶にからまって引き上げてしまった女の子、それが姫子であったが、その初顔合わせですら、彼女は死地に等しい眠りに落ちていた。陽と月の巫女として、大神神社で修行をはじめてからも、姫子ははるかに朝早く起床するので、じっくりと寝顔を観察したこともない。

姫子の柔らかな唇に、そおっと指の先で触れながら、千歌音は自分の襟元をなぞってみた。
あの鎖骨のあたりに残された、花びらのような痣…あれは、もしや。自分の胸もとへ顔を近づけている姫子のすがたを想像して、千歌音はすっかり紅潮してしまうのだった。

眠っているのがこれ幸いと、千歌音はいたずら心を起こしたくなくなって、姫子の頬をさすってみたり、透きとおった髪の先を指先に絡めてみたり、襟元をなぞってみたり、喉のあたりをこそばかしてみたり。そんな遊びをしてみるのだが、姫子はいっかな目を見開くことはない。ほんとうに、生きているのだろうか…? 不安に駆られた千歌音は、聴診器よろしく、姫子の左胸に耳を当ててみた。心の臓の波打つ音は、やや低く小さいが、かすかに聞こえる。それに、手を握りしめても、温かみは残っている。

無防備に横で寝転がっている姫子を眺めていると、千歌音はさまざまに思いめぐらすことがあった。まず、姫子のいない間に起こった出来事をどう伝えよう。そして、これから、どう対処しなくてはいけないのか。巫女ならば、使命に従って、そう考えねばならない。しかし、千歌音がいちばんに問いただしたいのは、なぜ、姫子が謎の置き土産を残して、姿を消してしまったのか、だった。

いつのまにか、一葉の青い蝶がひらひらと飛んでいる。
やたらと翅が大振りの、美しい蝶だった。最初は千歌音のぐるりを廻っていたのだが、眠りこけた姫子の頭に飛びついたのだった。まるでそれが髪飾りのように見える位置でおもしろく、千歌音はおもわず笑いそうになった。蝶は足先でにじり歩くようにして、姫子の口もとを覆うように止まった。鼻まで覆うくらいの大きな蝶だったので、姫子の呼吸が苦しくならないかと危ぶまれ、千歌音は手でさっと払いのけようとした。その直後、青い蝶はなんと逆に千歌音の唇に張り付いてしまった。

仰天した千歌音は、その美しい翅を引きはがそうとして振り上げた腕を、そのまま下したのだった。何かが聞こえたように思ったからだった。代わりに人差し指を一本立ててみた。蝶はそれを止まり木として移って、しばらく憩っていたが、そのうち飛び立ってしまった。

姫子は眠っていない。いま、この瞬間も、つねに私を見守り続けてくれているのかもしれない。
あの洞窟の暗がりの中と同じで、不自由なからだで、ずっと、私のことを…。そう思い至った千歌音は、姫子そのものが目覚めるのを気長に待つことにした。そして、それがどんなに気の遠くなる時間であっても、側に近づいた生き物は無体に傷つけないようにしようと誓ったのであった。

小さな命を渡り歩いて、千歌音にやっと近づいてくる姫子の魂に、ただ最初にひとこと、お帰りなさいと言ってあげたい。それまでは、姫子に近づく危険がないように、ずっと見張り番を続けなくては。千歌音は不意に沸いた使命感に、顔を引き締めた。

姫子は、やはり、なかなか目覚めない。
それでも、千歌音は諦めなかった。何を焦る必要があるだろう。永遠に別れをしたのではない。姫子のからだはいま此処にある。姫子の魂のよすがも、確実に近づいている。この世界は、絶対に、いくど離れ離れになったとしても、私と姫子とを逢わせてくれるだろう。そして、目覚めた姫子と、あの先だっての夢のような、ふたりだけの茶会をここで楽しむのだ。姫子がいつ目覚めても、慌てないように千歌音は姿勢を整えていた。



ジャンル:
小説
この記事についてブログを書く
« 「夜の眇(すがめ)」(十八) | TOP | 「夜の眇(すがめ)」(十六) »
最近の画像もっと見る

Recent Entries | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空