陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の眇(すがめ)」(三十三)

2009-09-30 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空

扉を開けて出迎えたのは、姫子だった。
彼女はいつもどおり、緋袴に白の小袖、紅の掛衿(かけえり)、その上に透かしのある千早という正装のいでたちだった。髪をひとつにまとめたのは、楮(こうぞ)で作られた檀紙の丈長で、赤金の表裏、粋な感じに跳ねあがっている。黒髪ではないものの、巫女らしい姿である。巫女集団を率いる女性祭祀者の孫娘として育ち、多くの綾に着飾った由緒正しき巫女たちに千歌音は囲まれていたというのに、やはり姫子ほど巫女に相応しい者はいないと思えたのは、その見目の良さだけではなかったろう。そして、そう思ったのは、何度ぶりだろう。

千歌音が、古井戸の底から襤褸をまとった灰まみれの娘を拾い上げてから、すでに五年が経っていた。この五年というもの、引き上げられてばかりいるのは千歌音の方だったのに。失うもののほうが多いと嘆いていたのに、いつのまにか、護りたくて、助けたくて、庇いたい、そんなもののほうが少しだけ増えていた。その日は、その暗窟の出口まで気を確かにもって出られた、はじめての日になった。

「おかえりなさい、千歌音」
「…ただいま、姫子」

闇の牢獄から無事戻ることができて安堵したのか、千歌音はふいに泣き笑いしそうになった。
胸を張って何か言わなきゃ、と思ってみても、そのあと言葉が出てこない。しかも、出てきたのはくしゃみひとつ、ふたつ。姫子がくすりと笑いこぼして、自分のまとった千早を、さっそく千歌音の肩に掛けてくれた。初夏とはいえ、木下闇で覆われた山はやはり肌寒い。湿気と瘴気とで冷えて重かった全身が、じんわりと温まっていく。千歌音の分は、にわかごしらえの赤子用おくるみになっている。借りた千早の片袖だけを通さずに持ち上げて、どうぞと誘ってみたが、姫子が首を振る。断るというのに、嬉しそうだった。

「前をしっかり合わせておかないと、風邪をひくわ。温石代わりなら、その子を貰おうかな」

と言って、まんまと疲労困憊の千歌音から、そのちょっとした重荷すらも肩代わりしてみせた姫子なのだった。
姫子の気遣いがありがたい反面、どこか寂しかった。ふたりでひとつの衣を共有できない、たった、それしきのことで。なんとなく、千歌音は自分が恥ずかしくなった。忌み神たちを前にして平然と対処できた自分であったのに。

赤児を受け取ると、姫子は笑顔を弾ませた。
何もかもお見通しの得心顔で、その結果を待ち望んでいたようにも見える。赤ん坊は姫子にはなおさらなつくようで、その首にぎゅっとまとついて離れなかった。嬰児(みどりご)というのは、骨がしっかりしていないので、抱えているだけで危うい。落とさないか、泣かせやしないか、と心もとない。

姫子に預け渡して、ほっとしたのも束の間、なくなった重さの分だけ、なんだか、気が呆けてしまったような感じもする。他人のいのちの重さを預かることの責任というものを、千歌音はひしと感じ入り、自分はこれまでどれだけ、世話になった人に重荷を背負わせていたのかとも思ってみた。

洞内を抜けると、そこはすでに火灯し頃であるはずが、六月の太陽はいっこうに落ちる気配を見せなかった。
間延びした昼の輝きを雨雲がさっぴいているこの時節の太陽は、なおさら眩しい。闇から抜け出て出会った世界は、なんとも鮮やかに映った。白露を弾いた青草がきらめいていて、黄金の花粉が偏った白い百合花びらの輪郭はおおきく割れ広がっていた。移りげな紫陽花のうちで不変の色味を保証する翠葉の、ていねいに縫いこんだような葉脈が目にも美しくくっきりとしていた。雷雨を浴びたのは、外も同じであったらしい。姫子が濡れねずみになっていた気配はなかったので、気づかなかったのだ。

ふと、手の甲が触れあった。
左の手を掬いとられるようにして、姫子は千歌音が忘れかけていたものへ注意を呼び覚ました。赤子をしっかり抱えているので、確認してぱっと離してくれたのだが。

「その手、痛むの?」
「…え? あっ…。こんなところに…!」

陽の当たる場所で見れば、先だって、ぴりりとした痛みの正体がわかったのだった。
千歌音の左手の甲に、釘で引っかかれたような模様が刻まれている。それは、背中の刻印と似た、三日月に見えた。夕陽に透かした手のひらに、幾筋かの血の流れが見えていて、木の梢が月を絡めとっているように思えなくもない。手の皮は薄いので、少しでもかすっただけで相当痛むはず。こんな手で、落としてはいけないものを抱え寄せてきたことに、千歌音はいまさらながら驚いてしまった。

しかし、千歌音は痛がりもしなければ、臆することもなかった。
以前ならば、自分の血を見るだけで気分が悪くなるほどであったのに。どこか笑っているようにも見える傷である。そういう大胆な三日月のような口もとをして、神勅を承ったことを千歌音はいまさら思い出した。

「あとで、きちんと消毒しましょ。千歌音に傷が増えると、わたし、おちおちのんびり過ごせないわ」

姫子がおどけて軽口をこぼすので、その傷をあまり深刻には考えないように努めよう。
千歌音は、そう考えた。致命傷というのでもなし、大事をなした勲章のようなものぐらいにしか思わない。傷口には適切な処方を施せばいい。こころの痛みだって同じだった。こころの痛む想い出は、ぱふん、といい音のする櫓箪笥の引き出しにでもしまっておけばいい。



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