――あの不思議に変化せしめた剣神・天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)発見から、さらに数日後。
いまも姫子はあいかわず、ぐっすりと眠りこんでいる。もちろん寝息はある。
よほど疲労をためこんでいるのだろう。抱きかかえられた仔犬もいっしょにおねんねタイム真っ最中なのだ。
仔犬との再会を姫子はことのほか喜んでくれた。
ふしぎなもので、この仔犬も餌を欲しがるふうでもなく、粗相をするわけでもない。物寂しい冷たげな板敷の月の社のなかで、やにわに家族が増えたみたいで、姫子も千歌音もあかるく口数が多くなった。まるで、学園の薔薇園にいたときの少女らしい華やぎをとりもどしたかのようだ。
儀式は大事をとって休息をとりつつ行っているが、なんど試みても、その剣脚がうんともすんともしないことすらあった。
それでも、千歌音も姫子も、あきらめてはいない。互いの力に絶大な信頼をおいているからだ。彼女たちを結びつけた仔犬も側で愛嬌たっぷりに見守ってくれている。可愛い生きものがいるだけで、ひとの心は和む。そんな余裕が、悲壮な儀式の負担をやわらげてくれる。ふたりの巫女の愛が高まるほど、剣にはたらく力は大きくなるはずだから。できない、などと万が一にも思ってはならない。あの運命の裁ちバサミのようなおぞましいものの諸刃をふたたび開かせてはならないのだ。
だが、できないはずはないと頑なに信じるためには、できない理由を吟味する必要があった。
ひょっとしたら。かつて自身がアメノムラクモ復活を拒んだように、またしても無意識のうちにアメノムラクモ封印の儀式を厭っているのではあるまいか。このお勤めが終わったなら、いつかは迎えるであろう、姫子との別れを慮って…?
そう、来栖川姫子はほんらい死んではならないはず──の巫女なのだ。
あの青い星で生き残り、いのちを慈しんで次の時代へ伝えるはずの存在だった。それを望んでいたのは、ほかならぬ自分。今の彼女は現実界、あの地球ではどういう状態なのだろうか。ひょっとして肉体だけが眠りつづけて、魂だけがこの月の社へふうらりと飛んできてしまったのかもしれない。儀式が終わったら、そもそも姫子はどうなるのだろうか? 消えてしまうのではないか? この仔犬とともに?
しかし、そんなことを恐れるのもおかしい。
もともと露と消えゆくさだめと決めていたのは、この自分なのだから。別れを覚悟して、この社の階段をのぼりつめたではないか。運命を捻じ曲げてまで、姫子を犠牲にしないと自分はかたく誓ったではないか。地に生れ落ちようが、この月にいようが、その信念は変わりない。
いたわるように唇を、姫子の口角あたりまで寄せた千歌音。
眠りの底にある頃合いをみて、ないしょでキスをしようとしたのに。その首をぐいっと抱いて、姫子のほうから接吻されてしまう。
「姫子ったら、起きていたの?」
姫子は瞼を閉じたままで答えない。
仔犬が目を見開く。しぃ、起こしちゃだめ。指を口にあててみせるが、姫子の腕から抜け出して、ふてくされたようにひっくり返る。
くす、と誰かが笑った気がする。
寝ているふりだったのだろうか。それとも、寝言めいた偶然のたわむれだったのだろうか。だとしたら、彼女の夢のなかを覗いてみたい気がした。ふたりは同じものを見ているに違いないのだから。
姫子の頬をかるく突つくと、ふふっ、とちいさな笑いがこぼれ落ちた。やっぱり、目覚めていたのかと、千歌音は含み笑い。
こんどはぺちぺちと頬を叩くと、人形のまぶたのように、突如ぱちりと目を開けた姫子はその手首をつかんだまま。
「姫子?」
「ふふふっ、来てくれたのね、千歌音」
そのとき、千歌音はいつもよりいくぶん低い姫子の声を聞いた。氷のなかに閉じ込めたような、冷たくゆがんだ響きがある、その声を。
千歌音の手首をつかんだ姫子の手は、ふいに力抜いたように、ぱたりと地に垂れた。まるで、意識を手放したようになっている姫子は、目をかっと見開いたまま、肌の表面が蒼白く輝いている。
「…姫子、どうしたの?」
あきらかに様子がおかしい。
千歌音が揺すぶりをかけようとしたせつな、姫子のからだが上から糸で吊られたように立ちあがった。胸の中央の太陽の痣が、燃えるようにかがやきだした。
まるで胸元に篝火の松明をもっていて、その焰が後ろへの投影を大きくするように、姫子の背中からは丈の長い影が伸びていった。隣の仔犬のすがたはいつのまにやら消えていた。
【神無月の巫女二次創作小説「花ざかりの社」シリーズ(目次)】