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陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

オタクが作品に求める美学とは?

2025-03-31 | 二次創作論・オタクの位相

X(旧ツイッター)を眺めていると●●(作品名)を好きな人とは相性が良さそう、お友だちになれそう、という意見をお見かけする。
私も若き頃はそうだと信じ、同じ作品の愛好者は親きょうだいよりも大事な仲間ではないかとも思い、そのジャンル界隈の作法(…という名の空気感)などは従うべきだと考えてもいた。

しかし、おなじコーヒー党であっても豆にこだわりがあって派閥がわかれるように、この作品あるいは傾向(GLだとかBLだとかの)でつながった関係性は事実、完全一致にかさなりあうことはない。

「好き」よりも「嫌い」が一致する人を見つけたほうがうまくいく、という意見もあるが。
どちらにしても、互いの許容範囲において譲りあうかどうかが関係維持の焦点になるだろう。「好き」も「嫌い」もなにかを選ぶ、切り捨てる気持ちの向き合いかたなのだから。

趣味の好みというよりは、それは個々人の生き方にもとづく信念の違いなのではないか、と気づくことがある。
人間の生まれた環境は種々さまざまであるし、同じ血を分けた家族でも遺伝子がおなじ双子でも、正反対の信念を抱き、対立することはありうる。ましてや、他人ならなおさらだ。他者をまったく自分そのものに染めることはできない。

「チ。―地球の運動について―」には第三章で、教会の権威に反する異端解放戦線の隊員たち、組織長、そして巻き込まれた移動民族の少女の、哲学的な問答がある。
じつは隊長も、隊員のそれぞれも、神の見解をめぐっては解釈がそろうことはない。少女ドゥラカは「神は居るではなく、要るの?」と大胆不敵にも問いかけ、シュミットは神は絶対的に存在するが人為的に穢されてはならないと考えている。それでも、彼らは一冊の本を出版することに命を賭して情念を燃やす。そのために結束し、互いのいのちを預けあう関係にさえなる。それは、その時代においては厳しい弾圧を受ける破滅の道である。組織長であったヨレンタの最期がそうであったように。

信念のために死を選ぶ、それは美しい反面。
玉砕願望のように、死に遅れたものをとがめる集団心理の危うさをも秘めている。だから組織化ではなく、孤高でなくてはならない。ひとりで死ねば英雄であるが、みんな連れ立っての巻き添えはただの犯罪者である。

「チ。―地球の運動について―」は色恋沙汰のない硬派な作品なんだけども、「世界を敵に回しても貫きたい孤高の美学」がある点では、「神無月の巫女」の姫宮千歌音と通奏低音する部分はあると、私のなかでは思っている。
千歌音が苦しむ禁断の恋という枷はこの現代にあってはいささか時代がかったものではあるが、彼女の場合、さらに巫女の悲しき運命という二重の手枷がはめられている。

いわまの際の後悔のない晴れ晴れした死に顔。
これこそが人生を謳歌しきった者の姿ではないかと。オクジーが眺めた最後の星空の輝きは極上の美しさだっただろう。そうだ、私たちは、最高の笑顔で死にたいのだ、と。それこそが生きがたいこの世での最後の希望なのだと。

どちらがすぐれているとか、欠けているものをが補われたとか、令和の新感覚が昭和の古くささを凌駕したとか、そういった良し悪しでみれば、どんな作品にも色眼鏡を通したデコボコさがある。

しかし、かならず数珠つなぎのように、自分の感性に貫かれる作品群には、なにがしか共通点がある。
それは果たして何だったのだろうかと、この20年あまり、ずっと考えつづけてきた。なにが描かれていれば、訴えられていれば、それは自分の心に刺さりつづけるのだろうか、と。

信義のために命を捧げることができずに生きぎたなさを覚えつつも、感官の刺激による小幸感に包まれることで死を恐れていもいる。そんな自己矛盾をまぎらわすために、こういう作品の摂取が不定期に必要なんだろう。

樽の中にふりそそぐ陽光を愛したディオゲネスみたいに、身近な誰にも理解されない愛をあたためつづけるのが、はみだしオタクの流儀。10年いや百年スパンでのちの誰かにいつか届けばいいなという希望。それをくすぶらせながら、ブログを書きつづけていたのかもしれない。


(2025.02.22)




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