陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の桎(あしかせ)」(六)

2009-10-01 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空

──『月には誰も知らない社がある。全てはそこからはじまった…』
しんみりと胸の奥にひびくこの言葉。どこかで聞いたことがあったのだろうか。聞かせたことがあったのだろうか。ひとびとは、どこから生まれたかもわからぬ、ひとつの至言をとりあいっこして、あるいは一枚の絵、一編の音楽をもとにして、自分をしたたかに語ろうとすることがある。あらゆる名作には、それに出会った数だけの人の歩みがついて回る。名作はひとに語られ、ひとを語る。『月には誰も知らない社がある。全てはそこからはじまった…』──その言葉からはじまる、無数の物語が、ひとの生きたぶんだけあるように、姫子には思われる。

「お母さんがね、よく言っていたの。お月さまはみんながいずれ辿り着く場所だって…。そこには悲しさがなくて、優しさだけがいっぱいあるところなんだって」
「そうか。姫子は月が好きなんだな! よし、俺は決めた。姫子をいつか月に連れていくぞ! 姫子、君が望めば、俺は月にだって行ける。行けるんだぜ」

姫子が言った「月に行く」というのは、科学文明に憧れる少年の思うような、ロケット乗りの宇宙飛行士が到達する場所、という意味あいではなかったろう。
だが、姫子はソウマの思いつきを否定しはしなかった。こくん、と頷いて、晴れやかな笑みで応じてくる。凍えた日でも春に居合わせたような気分にさせてくれる。姫子という女の子に、ソウマはぐいと引き込まれた。ひとつその淡い瞳で微笑んで、ひとつその甘い唇で声援をくれたら、世界でも救ってしまえそうな気分になる。

それからふたりは気まぐれに他愛のない話をした。
ソウマは幼い頃一時期過ごし、やがてそこの養子に迎えられるべき大神家の不思議について語った。ひいじいさんが大事にしていた神社のお蔵には、宝物がたんまりあって、なのに、いちばんに大事にしていたのは古びた入れ歯だったこと。その入れ歯が夜な夜なしゃべりだすという噂があったこと。花びらめいた眉毛のついたひょうきんな面相の犬がときたま、うろついていたこと──。

ふたりの少年少女の遊んだ廃車の天井を、雨音が叩きはじめた。
土砂降りというほどでもない。しかし、錆びついて古ぼったい金属を水がさかんにはねる音は、耳にうるさい。ただの一滴で、あれほど心臓をどっきり裏打ちするほどの音が出るものかと思う。早くここから出て行けと追い出しにかかる、間延びした銅鑼のようでもある。車の屋根はあまり鳴らないものだが、なぜか、いやに耳に沁みつく音だった。

そのとき、姫子のお腹がぐう、と鳴った。
聞いてしまったソウマのほうが、なぜか顔を赤くしてしまった。泣いてしまったら、急に力が抜けたようになる。姫子は思い出したように、けさ懸けしていたフェルト製ポシェットから、森永のミルクキャラメルを取り出した。熱で角がとれているが、食べられなくもない。一個ずつふたりで分け合った。小さな甘さが湿った塩辛さの滑りこんだ口の中にほどけていく。粘土細工のようにもろく、はかなくて、それでも最後の最後のちっちゃな芯が抗っている。俺たちだって同じだ。こんなふうに生きてやるぞ。融かされたりするもんか。押しつぶされたって、ロボットの拳のなかにいるみたいに耐えてやる。姫子もソウマも弾けたように笑っていた。

包み紙でちいさな紙飛行機をつくって、飛ばしあいっこした。
姫子の分が風ではね返って髪に絡みつく。ソウマが手を伸ばそうとしたら、たちまち姫子が頭を抱えるしぐさをした。紅茶いろの髪をふるって紙細工が落とされるのを見つめながら、ソウマまで頭の古傷がじくじくと傷んだ。雨音がいつのまにか失せていた。

「おり姫さまとひこ星くんも、夜空であえるよね」

姫子がドアにあるハンドルをくるくる回して、窓ガラスを開けた。
ソウマもつられて、運転席がわの窓を開ける。七夕の夜だったことをすっかり忘れていたのだった。夕空は暗みはじめ、涼しい空気が入りこんでくる。

「わたし、忘れないよ。十年たっても、二十年がすぎても。きょう、ソウマくんが見せてくれたこの景色、きっと忘れない」

舌ったらずな姫子にしては、できすぎたありがとうである。
ソウマの胸が高鳴った。ここに連れてきてよかったのだと思った。たまたま晴れになっただけで、俺が望んでつくった空じゃない。有頂天になりたくなくて、気恥ずかしげにクラクションを鳴らしてみた。ハンドルにひじをついて、気取ったふうに前を向く。

「嫌なことってさ、あとから雨みたいに降り続くけど。それもずっとじゃない。いつか、晴れてきれいな空が見られる日があるんだ」

その言葉をしおにして車を飛び出したソウマと姫子は、陽の暮れた街外れでヒッチハイクをくりかえした。
姫子は、もう、車を恐れなくなっていた。夜の銀河が美しく空を領していて、ふたりの帰路を明るませている。月光と星屑に包まれて、無事、児童養護施設に戻ったところでたんまりとお説教とお仕置きが待っていた。水たまりに浸かった外履きの靴ではごまかせなかった。ソウマが姫子と遊ぶことは、それきりなくなった。

それでも、いつか、ソウマはあの日の言葉をふたたび言える日が来るだろうと信じて疑わなかった。



ジャンル:
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