陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の点(くろぼし)」(三十八)

2009-09-29 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空

二十世紀、それはまさに大衆の時代だった。
ひとりの偉大な君主、知恵ある賢人、勇猛な武人、美貌の麗人、そして信の篤い宗教家たち。名を残すわずか一部の傑物たちが歴史を動かしたのは過去のことだった。折り紙つきの揺るがしがたい血統よりも、誰にも換えやすい金塊が愛され、新しい資本家と労働者との階級格差が生まれる一方、名もなき庶民にも享楽と反抗とが許された。戦争と革命の連続によって国家が脅かされ、王位が滅ぼされ、名門の貴族が落ちぶれていった。とくに第一次世界大戦後の、この1920年代はそれが顕著になっていた。姫宮のお社が築いた信仰心も敬虔な愛もすでに廃れてしまい、さらには偉大な姫宮の先代が没して、姫宮の本流でない余所者が我が物顔で権勢を牛耳っている、そんな混沌しかない村の現状で、誉れ高き姫宮の名がもはや人々の胸に響かなくなっていたのは時間の問題であった。そして、常世の国が闇に閉ざされたときであっても、ただひとつ希望の灯として神に愛されたことから「天火明村」の名を持つこのまほろばの村に、あの忌むべき黒い太陽が昇り、村の支配者の館の一部が魔物に襲われたことをして、村民たちを姫宮憎し、巫女殺すべしの反動に駆り立てたとしておかしくはない。

民衆のあまりにおぞましい振舞い。それは洞窟で千歌音に襲いかかってきた、あの悪意の塊そのものだった。
人々が口ぐちに投げつける言葉のつぶて。それはすべて千歌音には、あの呪いの声の嵐に置き換わっていった。────「巫女を殺せ!」「巫女を殺せ!」「巫女を殺せ!」「巫女を殺せ!」「巫女を殺せ!」というあの連鎖の声。

だが、千歌音には反論できるはずもなかった。
たしかに、自分は我が身かわいさに逃げたのだ。それは覆しようがない事実。あの隠し穴にはまだ五、六人は入れる余地はあった。千歌音が出ていって、逃げ惑うひとの幾人かをこちらに誘導すれば、助かっていたはずの命もあったはずだった。そもそも、自分が囮になっておびき寄せておけば、被害があんなに広がるはずもなかった。逃げ惑いながらも、闇の中に煌々と輝く月のようなあの大巫女さまの再来を夢見た人々は、千歌音に縋るしかなく救いを求めたのだ。だが、自分がしたことはどうだ。現場の当事者であることを放棄して、死んでいく者たちの悲劇を冷徹に眺める、無能な傍観者になっただけだ。食べられたくないと願った魚を放り出して、乾いた砂の上で息絶えるままにしておいた。おのが身の危険から命からがら逃げだして、侍女の手を借り、隠し穴の底でひたすらすくみ上がっていただけではないか。一瞬でも心憎しと思ったあの女を見殺しにしたときに、千歌音はまんまとあの女を殺したのだ。

神に対して、天に向かって、刃をふりかざし、拳をふりあげて怒ることはできない。
どうしようもないものへの人の憎悪。その怒りはどこへ向かうのだろう。それは神の声を聴き、天の響きを見る者へと向かうのだ。悪しき神を制御できないのであれば、その原因は神の威を借るべき者へと向けられるのは必定。巫女として名乗る以上、千歌音はその責めを免れ得ない。

どうすればいいのか。せめて守らなければならない、いまたった一人側にいる味方だけは。
武器も力もない、ひとを説き伏せる言葉ももたない。そんな私がどうやったら、人を守れるのだろう? こんなとき、姫子ならどうするのだろう。ひとの生きざまを左右するような占いの力を持ちながら、謂れのない罪を着せられた姫子はどうしたか? ──彼女は、なにも抗わなかった。

千歌音は暴徒の前にひざまずき、そして着物を脱ぎはじめた。
髪を飾っていた絢な櫛差しも投げ捨て、高価な刺繍のある帯も解き、足袋までも剥いだ。そして、身に着けていた鞄も地面に置いた。「お嬢さま、おやめくださいませ、ご無体な」と、主大事の乙羽ならば身を挺しても止めてくれるだろう。だが、乙羽はすでに気を失って助けてはくれない。千歌音はいま白い長襦袢一枚だけの姿だった。貴顕の生まれであれば、それは裸身になったも同然であった。

「私はどうなっても構わない。でも、そこの私の侍女だけには手を出さないで。お願いだから」

千歌音はその姿で両手をつき、頭を下げた。
頭を垂れた頭に、誰かが唾を吐いた。顔には石つぶてを投げられた。背中は棍棒で打ちすえられた。白い長襦袢は、たちまち、泥の沁みでいっぱいになった。脱いだ草履を投げつける者さえあった。髪をひっぱり、踏みつける者もいた。地面についた手のひらさえ、薄汚い下駄の歯で思い切り足蹴にされた。千歌音はそれに耐えていた。目を瞑り、唇を引き結び、涙をこらえて耐えていた。巫女の修行をした数々の苦難よりも、これほど身に堪えるものはなかった。姫宮家での冷遇された日々よりも、これほど心が串刺しにされていくことはなかった。そうであっても、千歌音にはこれしかなかった。人々の悪意を全身にその身に受け止めること。多くの犠牲になった命を前にして、おめおめと生きのびてしまった自分ができることは、これだけしかなかった。



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