陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

神無月の巫女精察─姫子と千歌音を中心に─(五)

2016-10-30 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女


──私は一人、あなたを想う。

同じ空には昇れぬ日と月。
神の社で想いは巡る。

必ずあなたに会いに行く。必ず生まれ変わるから。
きっと私を見つけてね。強く、強く抱きしめてね。
あなたが好き、あなたが好き、あなたが好き。

あなたが大好きよ…姫子。──

(旧版DVDブックレット第六巻より抜粋)



私つらつら思いますに、この物語は禁断の愛としての百合を描いていて、もちろんそれで申し分なく成功しているのだけれど、それのみならず、人の意図せずに犯した過ちとその許しはいかにして行われるのか、人がどうにもならない運命にさらわれたときその悲哀はいかにして超克されるべきか、ということを描いているのではないでしょうか。畳み掛けるように試練が訪れてしまう、このアニメ版のほうは特に、そう感じてならない。千歌音の断罪されたいという願いは、まがりなりにも果たされてしまったわけですから。




輪廻転生ものというのはフィクションにおいてつねづね好まれるテーマであるけれど、本作にあったのは、前世の想い人、運命の相手と廻りあえたというロマンス(女性はとくにこういう響きが大好きですが…)、ただそれだけであったのでしょうか。
むしろ、露呈されていくのは、紅い糸に絡まりきって身悶えする者たちの哀しい演舞。人生は惜しみなく奪う、奪われていく。昨日から生まれ変わりたいという意欲は、明日を強くする活力ともなるが、それは今日にも暴力となる。過ぎし世で犯した罪は次ぐる世でも償われるのか、あるいは全身全霊を傾けて相手に尽くしたのに最終的に自分を選んでくれない場合に諦めがつくのか、いくら愛情を注いでも振り向いてくれない相手のただその幸せだけを願って生きることはできるのか、というようなことを縷々切々と訴えているようにも考えられます。だって、世の中をまったく自分の望みどおりに渡っていける人なんてほとんどいないわけですから。

この”喪われた存在に対して捧げる愛は何よりも尊い、身命を賭してでも、他を犠牲にしてでも、守るべき価値のあるものである。その一途なひたむきな姿勢こそがひたすらに美しい”と高らかに純愛を、純潔を宣言してみせたのがこの「神無月の巫女」であり、”いやそうではない。残された者にはけっして喪失されたものとイーブンな愛ではないかもしれないが、それでも残された幸福を分かちあってこそ、なお生きる選択もありうる”とあっけなく輪廻にまつわるロマンティシズムを否定してみせたのがあの漫画『絶対少女聖域アムネシアン』だと考えますと、なにやら面白いですね(部分的にかなりきわどくて、いろいろ癖がありますが…)。

どちらがより現実的かと言いますと、後者なのかもしれません。
人間、霞みのような想いだけを食べて、生きてはいけない。でも理想は実現されえぬからこそ、夢をあきなう媒体においてぜひとも追求されてほしい。





姫子・千歌音・ソウマ三者の少年少女が愛憎まじえて輪舞し、三人のうちの二人が飛び出そうとする張力を残りの一人が押し戻そうとする、典型的な愛のトライアングルだけではない。人生は多くの登場する劇場でできている、ただその幕引きを読むことが難しいだけ。ツバサ、真琴、乙羽など周囲の絡みもふくめて、「神無月の巫女」という物語上、人びとの想いは複雑に交錯していきます。そして、それぞれの人物の立場から物語の流れを読むとまた違った味わいが生まれそうですよね。私たちもまたこの物語に生きる、大なり小なりの人びとの勇気に励まされているのです。兄弟愛に、友情に、忠節心に、義理人情に、そして情愛に。





結果がわかっていてもついつい見てしまうのは、人物のたどった感情に沿うものが観る者にもあるからで、折に触れてそれは蘇ってしまうものだからなのです。
失ったものや取り戻せないものについてのやるせない激情──それは大衆化時代にあてはめれば、ある古びきった時代への郷愁だといってもいい──こそが、この物語の友でであり、触媒であるのです。そして、それは人が世に出て、多くを経験するにつれて諦めの境地で悟っていくものでもあるでしょう。「神無月の巫女」、それはいみじくも棘でもあるが、薬でもある、そんな奇妙なもの。悪趣味かもしれないし、毒かもしれない。骨の髄まで愛すべきもの。だからこそ、これは人を選んでしまう作品になっているのです。


最後に新装DVD-BOX版ブックレットからの引用(敬称略)を。

介錯(原作)
「唯一無二の作品にしたかった。好きになった人が10年後も好きでいてくれる作品。他に同じジャンルの作品を探しても代わりのない、変えのきかない作品にしようと思いました」

植竹須美男(シリーズ構成・脚本)
「何故に千歌音にそこまでさせたのか? させたいのか? それは…その強さや優しさによって少しも幸せになれない。かけがえのない何かを振り捨て引きちぎって、血まみれ泥まみれになっても突き進む。惜しみなき愛の証としてその道を歩んで欲しかったからです。裏通りには裏通りならではの花が咲くことがあります。風雨に耐えて咲く花には別の味わいがあります。それが、私が『神無月の巫女』のスタッフが愛する花のひとつです。世界で一番好きなアニメに咲いた花です」



路地裏の日陰に咲く花が好きな私には、まさに、もってこいの作品ですね。
死ぬまでかどうかはわかりませんが(貢ぎつづけられる自信はないので…)、残り三年は好きになっていそう。とりあえず、七年目の確認。二人の運命がまだまだ回転してきそうですよね。未来に楽しみを見出してくれ、明るいものにさせてくれたのがこの名作。それはこの作品が私どもに与えてくれた愛──鎖でもあり固執でもあるが──だと言えるでしょう。そしてまた、さだめられた儀式のように、外しがたい約束のように、姫子が千歌音に、千歌音が姫子に再会を誓ったことをなぞるかのごとくに、ファンがこの奇跡のモメントを忘れまいと物語を開くというふしぎな動きが見られることが魅力的な事実なのです。







──愛は太陽。
暖かい日差しとなって二人の全てを包み込んでくれる無償の愛。
愛は月。
決して届かない高みで輝き続ける、孤高の真実。

愛は太陽…愛は月…背中合わせに廻りゆく。──

(旧版DVDブックレット第一巻より抜粋)





【各記事の目次】
神無月の巫女精察─姫子と千歌音を中心に─(目次)
アニメ「神無月の巫女」を、ロボット作品としてではなく、百合作品として考察してみよう、という企画。お蔵入りになりかけた記事の在庫一掃セールです。

【アニメ「神無月の巫女」 レヴュー一覧】



(2011年10月30日 記す)

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