陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の眇(すがめ)」(十九)

2009-09-30 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空

とつぜん、千歌音は柔らかな両の腕に抱きすくめられていた。
千歌音がはずみで傾いたので、ふたりはそのまま、膝をついて座り込む格好になった。千歌音の頭を姫子は胸元にもたれさせ、子どもをあやすような口調でこう語った。

「あなたは辛かったのね。あの暗闇はこころに堪えるのだから」
「姫子は、姫子は…平気なの? もう嫌よ、私はあんなところは嫌! 私は、私はね、姫子みたいに強くないもの、あんなの、もう我慢できない!」
「わたしは強くなんかないわ。ただ、井戸の底にいた時間が長かっただけで、暗いのに慣れているだけ」

千歌音ははっとなって、頭を上げた。姫子は無表情で遠くを見つめていた。
そうだ、このひとは私なんかよりも、よっぽど明るい楽しい世界を知らずに過ごしてきたのだ。生まれながらにあんな薄暗いじめじめした場所に棄てられて。子どもらしい楽しみもなく育ってしまった。ひとの夢を見抜く能力があっても、利用されて、評判が悪くなれば、あっけなく見捨てられて。外見が目立つせいで、忌み子のような扱いを受けている。お邸に囲われて安穏と暮らしている私などよりも、よほど、つつましく我慢を強いられる暮らしをしてきたはずだった。哀れさがもよおしてきて、同時にあまりの不甲斐なさに、千歌音は自分を情けなく思った。

「ごめんなさい、姫子。私は…」
「迷ったり、嘆いたりするのはいいことよ。よくものを考えているあかしなのだから。やみくもに信じ込むよりも、そのほうがいいのよ。わたしはもう悩むことすら許されない」

姫子は片肌を脱ぐと、千歌音の手をその左胸に添えさせた。
ほんのりと桜いろに染まった肌は柔らかい。だが、姫子は重ねたその手を押しつけた。千歌音は逡巡する間もなく、その手はどく、どくっと脈打っている心音を探り当てた。だが、なにかがおかしい。しこりのような硬いなにかがそこにある。不作法とは思いながら、千歌音は姫子の乳房を揉んでみた。姫子は動じない。動じてしまったのは千歌音のほうだった。恥じらってではなかった。

「姫子、あなたの心の臓が…?」
「わたしのこころは石と化した。なにも感じない。なんにも突き動かされない。なにも貫くことはできない。ただひとりの人を除いては」

姫子は強かったのではなかった。なにものも恐れなかったのではなかった。
こころがなにものにも押しつぶされないように、みずから、石のように、鋼のように、硬くしてしまったのだ。彼女に邪気がないように思えたのは、道端の石ころのように、感情を持たずに、害をなすような気配がいっかな失われているからだった。




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