陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の点(くろぼし)」(二十六)

2009-09-29 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空

ひゅるん、ひゅるん。と鋭い音がして、その巨体の動きがかすかに止まった。
怪物の腕には、幾筋もの鎖分銅が巻き付いていた。山の猟師たちのものだろう。筋骨たくましい屈強な大男を筆頭に、勇気ある百姓たちが鎌や鍬を持って、にじり寄っている。薙刀や竹槍を構えている女中たちもいた。姫宮邸内に駐屯所を構えている警官がサーベルを抜いている。幕末の動乱や、明治期の国内の叛乱をつぶさに覚えている者たちのなかには、いざというときに武器を構える用意があったらしい。

動きを封じられている隙を見計らって、若衆のひとりが、腰が引けて座り込んでいる千歌音に肩を貸してくれた。助かった! ぎこちない会釈で礼を述べる。そのまま、安全な場所へ…と思っていた千歌音の思惑は外れた。千歌音は、その巨神(おほちがみ)の真ん前に引きずり出されてしまったのだ。

そのとき、空の薄墨を流したような闇に浮かぶ黒い太陽のふちが、めらめらと燃え上がるように光り輝いていた。
千歌音はその巨体を見上げた。それはあの山中で見かけた埴輪の古代武人のような武張った形ではなく、大陸由来の仏像を模した細身のすっきりした造形である。明かりを受けて、外観が鉛のごとき鈍みのある光沢を放っている観音型。うっすらと口もとが微笑みで結ばれているが、これがあの不気味な鐘鳴りの声を放ったのであろう。山中で遭遇したあの巨神とは、また別ものだったのだ。その認識は、千歌音に深い絶望をもたらした。こんなものが一柱どころか、複数現れたら、この小さな村は一日にして殲滅させられてしまうに違いない。

「大巫女さま、大巫女さま、お願いでござります。神さまのお怒りをお鎮めくださりませ」

百姓たちが、口々に叫んだ。
砂塵のさなかを逃げ惑ってきた者たちは、みな、霜降りたようになっていた。しわがれた声で膝をつき、がっきと組んだ両手を振り上げている者もあれば、頭を地に擦りつけんばかりに平伏している者もいる。大巫女はすでにこの世にはいない。彼らは何か夢見ているのだろうか。この村で繰り広げられている悲劇は、山の神をねぎらって送り、幸ある田の神を稲田に差し招く、年の節目ごとの神事の延長などではなかった。あれは神ではない。仏像にも似せているが、しかし、如来か菩薩かの化身でもなし。殺戮を好む猛々しい化け物だった。巫女が慕うべき神が、あのような異形で残忍であるはずはなかった。しかし、村の者たちは皆、千歌音にはあの巨神を承伏すべき力があると信じているらしかった。

神鎮めの舞でも行うふりをすべきだろうか。だが、それが何になろう。千歌音は何も修行から得てはいないのに。しかし、災禍はこちらの習熟を待ってはくれない。

「私は大巫女さまではないわ。おばあさまはもう…」
「貴女様は巫女なのでございましょう? 大神のお社で修行を積んでおると聞きましたぞ」

懇願のまなざしに耐えかねて、千歌音はすげなく首を振った。そもそも、今のすがたは巫女ですらなかった。うたた寝を破られて着の身着のまま逃げてきたのだ。袴も着けてはいない。どんな姿であれ、そもそも無能な私にそんなことができるはずがない。千歌音は、棒を呑み込んだかのように造作もなく突っ立っているだけの自分を、あまりにも滑稽だと思った。

と、見るまに間近で大きな爆風があり、喉をむせ返らせるような粉塵が舞い上がった。
おのが腕の拘束を離れんとする巨神がまたしても暴れ出したのだ。山猟師たちが一斉に射撃の構えをとった。無数の弾丸は跳弾して、流れ弾に当たった者が倒れていった。

かくなるうえはと、群衆は隠し札を拝むような気持で、粘り強く千歌音に視線を注いだ。
千歌音は、晴れがましいい青空のもとで、不本意に崖っぷちに立たされているような気分になった。怪物退治の英雄を待ち望む人の分厚い期待に追い詰められていくのは、突き飛ばされるよりも、なおのこと気が重い。

「…私は巫女ではない! 私は何もできないのに…!」

千歌音が弁解がましく声を落として、顔を両手で覆った。
小さな叫びは、民衆の耳に届いたのか、否や。千歌音のその落胆の身振りですら、反撃の予兆ではないかしら、と無邪気に考えた者すらいたであろう。その千歌音の肩を馴れ馴れしく叩いた者がいた。その親しみ深さに、薄い涙を浮かべながら千歌音は、万に一つの期待を持って振り向いた。



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