陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の点(くろぼし)」(三十九)

2009-09-29 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空

────そして、あの発作が起こったのだ。
口もとを押さえても、溢れ出てくる血が混じった水と、鏡のような不気味な欠片。私は人に満足に謝ることすらもできないのだろうか。そのために、みずから呪いのようなこのからだで滅びてしまうのだろうか。悔しさのために千歌音が面を上げた、その顔は狂気に満ちたものと見えて、さすがに、暴徒たちもこれには動揺した。千歌音の襟に手をかけて引きはがそうとした男は、火傷をしたと言わんばかりにぎょっとしてその手を放した。千歌音の背中に鈍い痛みが走り、紅い染みが滲むように広がっている。人々がみな後ずさりをはじめ、悪意の輪はゆるやかにほどけていった。足を遠ざけながら、彼らは呻くように口ぐちに目撃したこの不可思議を呟きあっている。

「巫女の血が流された…」
「見ろ…巫女の背中に、紅い月が…不吉な…!」
「オロチが…ヤマタノオロチが復活するのか?! まさか、ほんとうに…」
「世界が浄化される…ついに…その日が来る!」

群衆たちは歓喜に湧いているか、怯えているようだった。
ある者は歪んで伝えられた伝承のために打ち震え、またある者は血の神託に狂喜しきっていた。その中でしたたかに自分の仕事をまんまと終えていたのは、盗賊だった。首領格の男が指笛で合図をすると、暴徒たちはこぞって千歌音が投げ捨てたものをさっさと拾い集めて、逃げ出したのだった。馬車馬も連れ去られ、内部から茶器などを物色された箱馬車は叩き壊されていた。あとの群衆もただの見物人だったのか、気が晴れたのか気後れしたのか、興味を失って散りはじめ、しまいには誰もいなくなった。

千歌音はよろめいて這うようにして乙羽に近づいて、その側にへたりこんだ。
侍女は気を失ってはいるが、傷つけられていなかった。さすがに乱暴者も遠慮したのか、頬桁ひつぐらいは張られた覚えがあったものの、千歌音の美しい顔は思ったほど腫れてはいなかった。暴力を楽しみとして働く者は、拳をふるって健全なる筋肉や骨が軋みあげる音を聞き、血が弾けとぶのを観察するのは大好きだが、病弱と老残とはことのほか忌避していた。暴漢は健康と若さを狙って奪う盗人なのだから、枯れすぼんだ花を手折ったところで、何らの喜びを握りしめることはないからだ。そして、己の手を汚さず流れる他人の血をただ放置しておくことのほうが、より残酷だった。潔く止めを刺すよりも、殺す価値もないと死に体で放置される孤独は。

口もとを拭うと、手のひらに生乾きの血が貼りついた。
まさか、あの忌まわしい発作に助けられるなんて、ね。苦笑いがこみ上げてくる。紅い月だって? まさか、これが人の目に見えるようになるなんて…。私と姫子を繋ぐ秘密の紋章が窮地を救ってくれたのだ。命を賭してお詫びをするというほどの覚悟ではなかったが、結果として、おめおめと生き延びた。不意に暴徒どもを追い払ったことに腑抜けたようになった。そして、その次に沸いてきたのは、言い知れぬ悲しみであった。

瞳から落ちた滴がぽたりと、地に着いた手の甲を打った。
うなだれた肩を、背中を、首筋を滴がしたたかに打っていた。矢のような雨がいっせいに降り注ぎ、千歌音をしとどに濡らしはじめた。算盤の珠を転がしたようなざわめきが流れている。襦袢一枚で瀧水に打たれた奇蹟の景物を思い描こうとして、千歌音はもう思い出せなかったのだった。爪の中に泥が食い込んでいた。

人間は怒りに駆られると、ひとから盗むのもためらわない。普段はひとをも殺さぬ、善良な顔の人間が。血が流れるのも手を叩いて喜び合う。あの熊のような男の一味は、巨神(おほちがみ)の混乱に乗じて、窃盗を含めた狼藉を働いていたのであろう。それを誰も咎めることも、罰することもしない。神が壊してしまう世界ならば、人間は喜んでそれを手伝うだろう。寄ってたかって、足蹴にできるものを見つけては叩きのめして憂さ晴らししていく。これが、これが、ひとの本性なのだろうか。あの悪魔の巨人を生み出し、あれを賛じてやまない、ひとのなかの悪意が。

千歌音には信じられなかった。この身今生の困窮と疲弊の果てに、世界の大崩壊を率先して臨む大集団に遭遇したことが。通りすがりの法界節の芸人衆ではなく、狂った劇場はいま、この村を舞台にしてはじまっていた。しかし、煎じ詰めて考えてみれば、千歌音には痛いほど彼らの絶望が理解もできたのだった。世間と折り合いのつかぬ愚かな自分だけを殺すか、それとも世界を殺すか、のいずれかは方向が逆さまであったとて、その本質は同じであった。

あれは私だった。幾万数万のかつての私だったのだ──!
あの憎悪と怨念の群衆のなかに、私を睨み、唾棄し、蹴り上げたあのなかに、私はいたのだ。だから、私は抵抗することができなかったのだ。生きることをどうでもいいと願っていた私が、たしかに、彼処(あすこ)にいた。ひとりの奈落の底の少女の傷口があけすけに見透かされたとき、呪いの傷口はさらに傷口を呼び寄せ、それは世界の破滅を誘いかける手形になるに違いなかった。千歌音はこの考えにおおいに打ちのめされた。

あんな黒山の人だかりに潜む、ありふれた人間の憎悪ですら相手にできぬのに、あの邪悪な神を名乗るという巨人にどうやって立ち向かえよう。燃えさかる劫火に一杯の水をかけたとて、何になろうか。無念は胸中にふくらむばかり。

いったい、この世の何処に、自分が生き延びられる場所があろうか。
この世は鬼だらけだ。うちひしがれた千歌音の涙は止まらなかった。姫子の行方は杳(よう)として知れない…────。



【十三の章につづく】



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