陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の点(くろぼし)」(二十二)

2009-09-29 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空

目覚めたのは、あの姫宮の離れ座敷・姫庫(ひめぐら)の寝室だった。
千歌音が巫女修行をはじめてから生活の中心は大神神社にあったものの、たまに里帰りが許された。千歌音の気鬱を見かねた大神神社の主・壱之新が姫子と相談の上、手配したとみえる。

しかし、千歌音に姫宮の令嬢としての居室は与えられていなかった。
乙橘女学校の寄宿舎入りを予定されていたから、すでに千歌音嬢の私室はなかったのである。姫宮当代の後見役である来栖川子爵はそもそも千歌音びいきであったはずだが、完治した姫子がかつてのように絵占いで利益をもたらさず、また不景気風が忍び寄ってきて、姫宮の事業の一部は縮小気味であるから、やや態度もよそよそしくなった。代替わりの影響もあって、姫宮の洋館への政財界の要人たちの出入りも滅多となくなり、維持費を捻出するために歴史あるその洋館は、ホテルとして改装されて営業されていたのだった。成り上がりの胡散臭い連中に会費制で貸し付けられ、政治的外交というよりは享楽と懶惰(らんだ)の溢れる社交界の会場と化していた。姫宮本邸にあった西洋式の大ベッドは、洋館の客間に運び入れられていた。

またしても心身の容態が傾いたのがわかると、姫宮家は元の牢獄部屋というべきあの忌まわしき場所へ、千歌音を追いやってしまった。そのことは、女学校への復学の夢がもはや完全に断たれたことをも意味していた。千歌音はもはや、平凡な少女として生きることは許されない身の上なのだ。しかも、時の政府が疎ましがっている巫女という立場上、存在を隠したいのが姫宮家の本心であろう。

いったい、私はなんど、この場所に絶望に挫かれて、戻ってきたことだろう。
上半身を起こした拍子に内臓に気持ちわるさを覚え、咳き込んだ。千歌音の眠りを破ったのは、この咳のせいでもあった。口をおさえた指のあいだを縫って、たらたらと紅いものが垂れていた。吐き出したのは、あの血の混じった液体と、それに不可思議な石の欠片だった。また、あの奇妙な発作まで戻ってきてしまったのだ。さらには、今度は、奇妙な欠片まで…。それは鏡を砕いたものに似ている。鏡に含まれる水銀は、暗殺によく用いられる道具であった。食事に微量を混ぜてじわじわと体内に毒が回るので、毒殺を疑われないのだ。千歌音の背中に怖気が走った。まさか、誰かがこの私を殺そうとしている────?!

いっそのこと、病身であることを理由に、あの苦行から逃れることができるのではないかと、弱気さえ芽生えてしまう。でも、そんなことをすれば、姫子を裏切ってしまう。姫子を失望させることは、千歌音にはできるわけがなかった。自分の弱さを見せれば、たちまち姫子の負担が重くなるのだ。ここは一番、自分が踏みとどまらねばならぬ。

そう思っていた矢先。吐き出したのはこの破片。
これは病ではない。あきらかに事件であった。毒殺ならば、すぐに飲食したものが利くはずだが、千歌音は目覚めてからこっち、何も胃に収めてはいない。倒れる前は洞窟の修行中、この姫庫に着いたのは昨晩。前回の食事からすでに半日は経過しているはずだ。いったい、何故? 私の身体はやはり呪われているのか…?

汚れた手のひらに視線を落としながら、千歌音はただ煩悶としていた。
そのとき、障子の向こうにひと影が踊ったのだった。きっと姫子が見舞いに訪れたのだろう。いつもの気安さで、さして居住まいを正すこともせず、障子の開け放たれるのを見守っていた。

「失礼いたします。千歌音お嬢さま、お加減は…ああっ!」

その声は予想を裏切っていた。しかし、そのあとの不快な音鳴りは、さらに失望を深めた。障子を半ば開き気味にして、膳を運んできた侍女が、驚きのあまりひっくり返したのだった。
膳には薬草を煎じた粥だったのだろう。だが中身がひっくり返った椀のことも顧みず、侍女は千歌音の側にうやうやしくも近づいた。千歌音よりはやや年上のはずだが、顔に覚えがない。この姫宮に雇われての新入りだった。どうやら、この屋敷の娘でもいちばん扱いづらい自分に配属されたとは。ご愁傷さまね。我がことながら、彼女の身の上を案じずにはいられなかった。千歌音のなかで、かつてのいじけ心がじくじくと蘇りつつあった。

「お着替えをお持ちいたします。それとお医者さまの手配を」

侍女は千歌音に駆け寄って、手ぬぐいに手をくるみ、吐き出したものに手を触れようとする。
千歌音はそれを冷たい口調で退けた。槍を投げつけるような勢いであった。

「それに触れるな!」

侍女は石像のように、その鋭い言葉に動きを固められてしまった。そろりと上目遣いで主人の顔を伺っている。だが、伸ばした手はひっこめようとしてはいない。指先一本動かすのさえ、癇癪に付き合わねばならないその理不尽さに、侍り女は耐えていた。



ジャンル:
小説
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