陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の点(くろぼし)」(二十三)

2009-09-29 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空

「いいの、それよりも、そこの貴女のやった粗相を片づけておいてちょうだい」

でも、千歌音さまの御身が、と案じ顔の新入り侍女。
吐瀉物に触れようとしたので、千歌音はその手を払いのけてしまった。私の命令が聞けないの?とばかりに、視線で脅しさえする。千歌音がそれをそのままにしておきたかったのは、やがてこの部屋を訪れるであろう姫子に、事の判断を仰ぎたかったからであった。姫子なら、なんとかしてくれる。「巫女を殺せ」「巫女を殺せ」「巫女を殺せ」「巫女を殺せ」「巫女を殺せ」「巫女を殺せ」「巫女を殺せ」「巫女を殺せ」「巫女を殺せ」「巫女を殺せ」──。洞窟のなかでのあの呪わしい言葉が頭のなかを駆け巡っている。あの理不尽に答えをくれるのは、姫子しかいない。

悪夢は寝ても覚めても続いているのだ。
それが証拠に、この身は、またこの窮屈な姫庫に押し込められている。かつてのように、千歌音にまた奇病がはじまっただの、魔物がとりついただの噂をひろめられて、医師だの薬師だの、訳の分からない祈祷師だの呼ばれるのは、もう御免こうむりたかった。それに、この新顔ももしやすると、姫宮邸内のどこぞの手先かもしれない。倒れて眠っている間に薬と偽って毒を盛られ、その効果を確かめにきたのかもしれない。

瞳のまわりが隈どられるかと思うほど、千歌音は睨みつけ、侍り女の挙措から目を離さなかった。
侍女は一瞬だけすくみあがってみたものの、言われたとおりに自分のこぼしたものだけ片づけはじめた。新人とはいえ、なかなか手際がいい。働き者なのだろう。不吉な鏡の欠片には気づかないふうで、千歌音にはこの新入りがまったくの無実であることが察せられてきた。そもそも毒を盛った張本人だとすれば、わざわざ目覚める頃合いを図って訪れたりはすまい。酒を溺れるほど呑ませるか、眠り薬を盛ったうえで、濡れ布巾で口と鼻を押さえれば、証拠もなく暗殺できる。吐瀉物が喉に詰まって窒息したのだと判断すればいいだけのことだ。女の細腕であってもひとは殺せる。しかし、この娘はひとを殺せるような顔をしてはいなかった。最初にひと目見たときから、分かっていたことではないか。とすれば、相手に非のないこととは自明でありながら、八つ当たりをしてしまったのだ。

やや後ろ暗い気持ちで、去っていこうとするその侍女を見つめていると、ふいにその当人がくるりと振り向いた。廊下に手をついて、深々と頭を下げる。よくよく見れば、この娘も、日本人離れした、色素の明るい髪をしている。どこか姫子と似ているような…。

「あの…わたくし、如月乙羽と申します。昨日からお嬢さま付きでお仕えすることになりました。ご用命がございましたら、なんなりとお申し付けください」

己の命を脅かした暗殺者が、わざわざ名乗りをあげるだろうか。
だしぬけの明るい挨拶に、千歌音は拍子抜けした。そして、また訝しんだ。この人には、ひょっとして私の血の発作が見えているのだろうか?

「貴女は怖くないの?」
「お嬢さまはわたくしにとっては、月の女神のようなお方です。わたくしの祖母は、月の大巫女さまのお側におりました。ですので、孫娘の千歌音さまへのお側仕えができて、わたくし、とても嬉しく思っています。今後ともお見知りおきくださいませ」

三つ指をついて、穏やかに微笑むと、また一礼してから場を辞した。
そう、あの子、おばあさまの側女の…。なんという巡り合わせだろう。ぼうっと視線を送っていると、乙羽と名乗った少女がまた現れた。千歌音はさっと目を逸らす。我ながら子どもじみていると己を罵りたくなりながら。

清潔な手拭を複数枚垂らした新しい桶が入り口近くに置かれ、また頭を下げて去っていく。
廊下には替えの汲み置き水の入った桶が置かれてあり、その横に胃に優しそうな雑炊の入った土鍋と茶碗、皿に切り分けされた旨そうな水蜜桃があった。その傍らに、ていねいな文字で「美味しそうだったので、すこし頂きました。お許しくださいませ」との置き手紙。あの侍り女は危険を顧みずに毒味をしてくれたのだ。おそらく、さきほどの粥を大袈裟にひっくり返したのも、千歌音が嘔吐していたのを見て、食わせまいととっさに判断したのであろう。主人の窮地を救うため、姫子を除いて、あれだけの機知を働かせられる侍女がいただろうか。

爽やかな侍女の名残を胸にとどめつつ、千歌音は窓の外へとぼんやりと視線を投げた。すでに梅の花はもう散りはじめている。あれを愛でる機会を今年は逸してしまった。そもそも、この邸内の梅が無事であったのかすらも、もうわからない。

乙羽さんと言ったあの子、今度はいつ訪れてくれるのだろう。どやしつけたものだから、もう来ないのかもしれない。私は人を疑って、疑って、信じられなくなるまで、疑ってしまう。優しくしてくれる人まで遠ざけてしまう。姫子のことすらも、いずれまた、そうやって遠ざけてしまうのだろうか。あんなに激しい修行を共にして、こころが近づきあった仲なのに。いまは一人でもいいから、味方になってくれる者が欲しいのに。姫子のように、いっしょに井戸の底にまで降りてきてくれる、そんな人がすぐ側にいるというのに…。千歌音は寂しさを抱きしめながら、寝床のなかでうずくまった。


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