陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

8月31日の憂鬱

2015-08-31 | 教育・学術・読書・子ども
暦のうえではもう秋ですが、カレンダーの夏ももう終わります。
この8月にとくに不測の事態がおこったわけでも、大きな収穫があったわけでもないのですが、お盆どきにはお寺参りや墓参りの準備、地域のお祭りイベントには清掃のボランティアなど。遅れて届けた残暑見舞いのお返事では、旧知の方がたのご健康とご活躍の報を聞き、嬉しい限りです。

しかし、今年の夏はいつにまして暑かったですよね。
甲子園出場の選手の皆さんも大変だったでしょうし。エンブレムや競技場のごたごたで紛糾している東京五輪にしても、秋に開催すればいいのに、米国などの放映権問題で圧力がかかっているのでできないのだとか。

この夏には、関西でも中学生を巡っての残念な事件もありました。
子どもを深夜徘徊させてしまう監視不行届きとしてまず保護者が加害者扱いもされ、さらには子どもを見守ることができない地域社会の絆の崩壊が叫ばれ、そして、捕まった犯人像で見方はがらりと変わる。40代男で仕事も家庭もある、けれど少年に対する異常性癖で過去に服役していた。被害者や加害者のプライバシーを根掘り葉掘りしても、その属性にある対象のみを批判しても、あるいは良心に訴えても、犯罪を根絶する明確な手だてにはなっていません。いまや、どのような「普通の人」でも被害者にも加害者にもなりうるのです。

夏休み明けの反動として、8月31日に学校に行きたくない子どもが、みずから命を絶つという確率が高いことが報道されました。またあまりにも世論が騒がしい為に忘れ去られてしまったのですが、いじめを苦に自殺したというニュースも。

これを受けて、ある図書館に勤める非常勤職員が、「死ぬほど学校がいやなら図書館においで」とつぶやいたことが話題に。ところが、教育委員会がこれを問題視して削除を検討していたようです。登校拒否の助長ではなく、自殺を連想させるような文言が含まれていたという、じつに下らない理由で。国語の教科書で、自死を選んだ作家の文章なんていくらでも載っていますよね。先生がたがやるべきことは、学校からドラップアウトする子どもたちを「データ上隠蔽すること」「いなかったことにすること」なのでしょうか? 違いますよね。ひとりでも多く、学校に行きたくないと思うような子どもがいないように、学校を通いやすいところにすることです。

こうした、大人たちの都合のいい、見たくないものは見なくていい、という事情でのせいで、多くの子どもが犠牲になっている。

安倍政権下において、教育改革がやたらと進んでいます。
政府が教育改革に熱心なのは、その成果を問われるのが二十年も三十年も先であること、在任中ではないこと、だからです。結果を問われないのに、教育という美名は庶民受けがいい。だから政治運営に自信のない政権ほどまっさきにやりたがる。文部科学省は、学校の統廃合を促進し、公立の小中学校教員の大幅な削減を目指しています。小学校や中学校がなくなれば、限界集落化はまずます進み、空き地空き家問題や、農林水産業の疲弊が拡大します。尖閣諸島や竹島問題のように、離島に侵入してくる外国勢力が、やがて本土の山林や農村を奪う、日本人の自活能力を奪って海外からの食料品にしか依存できなくなる、のは時間の問題です。核家族化が進み、隣人も知らないような集団住宅で自治会にも参加しない親たちが増えると、大人たちも子どもに関心を失っていきます。下手に関わると、体格もよく、ネットでいたずらをする子どもたちに危害を加えられるので、腫れ物扱い。

私の父母が子どもの頃は、学校以外にも子どもたちにも生き甲斐の場所がありました。すこしくらい成績が悪くても、家のお手伝いをする子は重宝されました。きょうだいが多かったので、子守りをして、生きていくために必要なことや、子どもの育て方を自然と学んだ人も多かったはず。よく、しばしば女性の社会進出が男性を駄目にしたという恨み辛みのような言葉を聞きますが、戦後どころか戦前でも、社会に出て働かないのは富裕層に限られ、中産階級以下の庶民は明治、大正期から共働き、家事も育児も男女で分けあっていました。ところが、いまや、生きる為の能力、躾は、なんでもかんでも学校に丸投げです。

今の子どもには、家で仕事をしてない親の生き方は見えにくいです。
親ととも行うのはレジャーばかり。あるいは、教育の成果を競い合うことばかり。子どもがなんのために生きるのかという問いを投げかけても、長時間労働やストレスの多い会社の人間関係でくたくたになった大人たちは答えてくれません。身近な大人たちに構ってくれない子どもたちはどこへ向かうのか。ネットのなかの繋がりに活路を見出すしかありません。子どもたちが何を考え、なんのためにそんな行動をとったのか判らない。仕方がないから、身近な保護責任者が家庭が悪い、その学校がおかしい、地域が悪い、そういうことにしておこう、という風潮が生まれます。責任を限定化することで、自分には対岸の火事だと麻痺させる。子どもがいない自分たちは関係のない、責任のない話だと思っている。

かつて、私も8月31に憂鬱だった子どもでした。
希望する高校に進学、成績もよく、友だちもいて、いじめに遭ったというわけでもない。しかし、夏休みが明けて、二学期になってしばらくしてから不登校になったことがあります。私は復学でき、学歴も取得できましたが、なかには、その挫折を抱え、二十代、三十代を無為に過ごしてしまった人もいるでしょう。人生の空白期間が長ければ長いほど、人生を取り戻すのが難しくなります。

学校に行くのが嫌だったら図書館においで、という言葉は、砂漠にオアシスです。死んでしまうくらいなら、その場から逃げた方がいい。それは卑怯でもなんでもない。そう思います。ですが、楽な方へただ逃げればいいよ、では解決しないこともあります。

日本の教育現場、学校でも、会社でも、とかく集団組織内での人間形成において、他人との接し方を学ぶことにあまり主眼が置かれていません。個性重視の教育は、子どもたちの個別の特性を見極めて良いところを伸ばすのが目的だったのに、いつのまにか、子どもに好き放題させるだけの結果になってしまった。教育現場では、指導指針にしたがって、何年生でこの分野を学ばせるとか、英語教育を充実させるとか、そういった外形的な目標ばかりです。美しい国,強いニッポンにしよう、と訴えている政治家自身が、国会で品のないヤジを飛ばし、経済界と癒着して労働者いじめをし、身分地位、経済的保障のある公務員も行政に責任をとらず、自分たちの都合のために法律や制度を変えようとしている。その姿を見て、子どもは何を学ぶのか。大人は判ってくれない、と言って絶望するだけでしょう。

死ぬほど学校に行くのが嫌であれば、図書館に行けばいい。
すくなくとも、ネットでうずまく大人たちの怨嗟や悪意にさらされていくよりは。しかし、ライトノベルやマンガの、完璧すぎて才能のあるお友だち像は子どもにとっての、一時しのぎでコンプレックスを代位的に解消してくれる英雄ではあっても、実人生を生き抜くためのモデル足りえません。子どもが本から学ぶことは、身近な大人たちがけっして教えてくれないような広い世界を学び、それをどう活かすかを自分で考える為です。学校では「みんな仲良く、差別なく」と決まり文句のように言われますが、実際に世渡りよく生きていくためには、自分も相手もどのような性格なのかを知り、どのようなふるまいをしなければ他人を怒らさずにすむのか、不快に思われないのか、それを学び取ることが重要なはず。しかし、先生たちは成績がいいか、聞き分けが良く愛想がいいか、親に権力があるか、そのような理由で子どもたちを選抜するため、学校という揺かごでは理不尽なヒエラルキーが醸成されます。

この学校内での階級階層から抜け落ちた子どもたちはどう生きるべきか。
人付き合いが苦手な人間に、それでも、最低限の人間関係を結べるようにならないと生きていけないことを知らせるには、どうしたらよいか。もし、図書館を学校社会からこぼれ落ちた子どもたち(あるいは子どものままでいる大人たちでさえも)の依りどころにするべきならば、絵本の読み聞かせやマジック大会のような幼児向けのものではなく、さまざまなジャンルの生き方の手本(けっしてエリートや成功者だけではなく、挫折を乗り越えた人のような)となる人を関わらせていくべきではないか、派手ではないが堅実な生き方と良心を持った人に語らせていくべきではないか、と切実に思うのです。

夏休みの課題ができなかったぐらいで、テストで大人が望むような及第点をとれなかったぐらいで、自分の人生を諦めないでほしい。
(ただし、こう言って慰めていいのは、過剰に頑張る完璧主義の子どもだけです。怠け癖があって、自分の言うとおりにならなければ、辞めてやる、死んでやるという同情の支配をしかけてくる、小利口な子どもには禁句です。どうやったら、目標達成できるか、その道筋をいっしょに考えてあげないといけません)

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