その影は、陽炎のように、ゆらりゆらりと揺らめいた。
まるで、孵化した蝶が蛹からもがき出るような、透きとおった美しい動きがあったので千歌音は固唾をのんで見まもっていた。それが人の形をなし、肉いろを帯びはじめて完全に姫子の身体から遊離する。
吊られた糸が切り離されたがごとく、前のめりに倒れこむ姫子を、千歌音は慌てて受けとめる。
姫子は千歌音のなかで、中の空気を抜いたエアブロウのごとくに、ぺたりと千歌音に張りつくようにしてのしかかった。そのからだは花束よりもはるかに軽い。魂ひとつぶんは抜けた軽さだ。
「はじめまして。…いえ、あなたには、おひさしぶりが相応しいのかもね」
しゃべったのは、姫子からはがれていった「影」のほうだった。千歌音の怪訝なまなざしを悠然と見おろす女性が、そこにいた。
目元だけ緩ませた笑顔。聞き慣れてはいるが、その甘さを抑え気味に落ち着いた感じにした声。固く結んだ唇──その女性は、姫子の姿をしていながら姫子にはまだない表情を浮かべていた。
「美しく育ってくれたのね、千歌音」
千歌音は、抱きとめていた姫子と女性との顔に、交互に視線を移した。
その女は、姫子とおなじ巫女装束をまとっている。しかし、いささか雰囲気が違っている。唇にはいささか年長けた艶があった。だが、その瞳には光りがない。まるで内側にひび割れを封じ込めたまま転がったびいどろ玉のようだった。目の動きが読めないので、何を考えているか判じえない。
「貴女は…まさか、オロチ?!」
オロチ衆の二ノ首ミヤコは幻術つかいで、姫子や千歌音になりすましたことがあった。学園祭で鳴り物入り参加をした四ノ首コロナは、姫子のまがいものを複製し、千歌音を翻弄しようとしたこともある。いずれも、千歌音は一蹴してみせたのだが。
その彼女たちにとりついたオロチの闇はここへ集約され、浄化された本人たちは善良な一般人として地球でつつがなく暮らしているはずだった。
その筆頭格が、来栖川姫子の幼馴染であった大神ソウマだろう。聖職者に、アウトローな走り屋、人気漫画家に歌姫、やんちゃな中学生に看護師見習い――ほかのオロチ衆たちも、この世の絶望を薄らげてそれぞれの才を活かし、いずれは姫子の人生にかかわってくる未来もあったであろうに。姫子があのまま平和裏に地球で生きのびていれば。
先刻、ふたりで精魂尽き果てそうになるまで、祈りを捧げたばかりだというのに。もう、封が破られてしまったのだろうか。いや、剣神・天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)にも目を疑うほどの異状があったのだ。イレギュラーが重なったとておかしくはない。
千歌音は姫子を脇にかかえたまま、空いた手をかざした。
護らなければ、このふたりきりの平穏を。愛すべき、この自由の日々を。誰にもじゃまだてさせはしない。手のひらが熱くなる。光りの球があつまってひき伸ばされ、弧を描くがごとく両手をぶん回すと、それがしなやかな弓のかたちをとる。
数段、後ずさって、やさしく姫子を床におろした千歌音は、すぐさま敵にむかって矢をつがえる構え。直角三角形に近く、いやというほど深く弓の弦をひきしぼっていく。胸を張り、息を吸って、そこで止める。するどい矢尻をもった光りの矢が浮かびあがる。
矢の先が姫子とおぼしき顔の眉間にぴたりと照準をあてる。
女の唇がふとゆるむ。すみれ色をした瞳。あれをいまから砕く。指先がふるえる。何を迷うことがあろうか。千歌音は目をつぶった。まぶたの隙間からこぼれそうなものがある。
きりり、と引き絞って射ようとした瞬間、矢は女の手によってあっけなく握りつぶされ、光りの粒となって飛散した。千歌音は顔をしかめた。手先が熱くひりついている。
「なにを?!」
「こんなもの、通じないわ。千歌音の手すじはとっくにお見通しなのよ。百年も、千年も前からね」
弓をつがえたまま呆然とする千歌音。
雪白の頬に、その寸時、ぴっと紅い筋が走った。弦が蜘蛛の糸の切れ端のように、ぶら下がっている。余裕の笑みをうかべた女は、あざやかな手並みでその弓をたたき落とした。
「また、こんなおもちゃを手にして。飛び道具はうかつに使っちゃいけないって、わたし、言ったじゃない?」
その女は千歌音の手首を、異常につよい力でつかんで放さない。
千歌音は片手をねじりあげられ、くるりとからだを回されて、女に背中に預けるかっこうになった。
曇りガラスでできているかのように、その巫女の魂は見透かすことはできない。
【神無月の巫女二次創作小説「花ざかりの社」シリーズ(目次)】