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青木功:「プロゴルファーになれたのは競輪のおかげ」

2018-01-18 13:08:46 | スポーツ
ちなみに、競輪にも「青木功」(茨城・53期)という選手がいたよ。





サンケイスポーツ 2018年1/17

ゴルフを始める前は、野球少年だったんだよ。地元の我孫子中学でも野球部で、体が大きかったから主に一塁手。抑えの投手もやった。

 ある試合で1-1の九回裏二死一、三塁から登板して、捕手のパスボールでサヨナラ負けした。頭にきて「もうこんなものやめた」とユニホームもグラブも燃やしたら、父の治助にこっぴどくぶん殴られて「自分で生活しろ!」と。近所の先輩から「キャディーをやれば稼げる」と聞いて、家から歩いていける我孫子ゴルフ倶楽部(GC)ですぐにアルバイトを始めたんだ。

 小遣いほしさだから、ゴルフに熱心だったわけじゃない。ある日、キャディーでついたお客さんがチョロを打ったときに笑ってしまって、ムッとされた。まだ中学生だからね。後日、同じお客さんについてダフったときには「プッ」と吹いて、ついに怒りを買った。

 「私だって一生懸命やっているんだけど、当たらないんだ」と練習場に連れていかれて、「わしのクラブで打て!」と。「キャディーだから駄目です」と断っても、「わしが打てと言っているんだ」。初めてクラブを握らされて打ったら、尻餅寸前の空振り。「ほら見い」。それからだよ、ゴルフの火がついたのは。

 お客さんがいない朝早くか夜遅くに練習した。野球経験があったからかティーを高くして打ったボールはものすごくフックしたけど、ときには300ヤードぐらい飛んだ。土曜の午前中に行われていた従業員大会で優勝するようにもなった。我孫子GCには名士が集まっていて、優勝するとスポンサーになって3万円を出してくれた。

 お客さんと回っていいスコアを出すと、2000円とか3000円をもらえたりね。何が何でも優勝してお金にありつきたいと…。飢えていたな。若手育成でそうやって争わせてくれたからプロになれたと、今でも思っている。

 我孫子GC時代の19歳で最初のプロテストに落ちて、21歳になった1963年9月に「翌年のプロテストを受けられる」という条件で飯能GCに研修生として移った。

 近くに西武園競輪場があって、よく通ったな。人から2万円借りて穴車券を当てて8万円にしたり、すってんてんで帰ったり。当時の月給は1万円くらいで、プロテストを受験するのには5万円かかった。元手5000円を競輪で3万円にして、残りは借金で64年に2度目のプロテストを受けたんだ。

 「青木は競輪で金をつくってプロになった」なんてゴルフ雑誌に書かれたけど、まんざら嘘でもない。今振り返れば、そのときもうけていなかったら、どうなっていたのかと思うよ。


 そういえば俺にクラブを握らせたお客さん、東京・新橋の高級料亭「金田中」の創業者の岡副鉄雄さんだと後で知った。岡副さんにキャディーでつかなかったら、青木功のゴルフ人生はなかったね。 

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