世なおし倶楽部

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Shock !他喰う

2011-01-19 07:47:21 | 哲学/ヨガ/芸術/宗教/政治経済

 無限・循環披露聡秘によって、すべての、

  つまり宇宙、生命、人生の矛盾が解明された。

 

 

1,食卓の披露聡秘

              食事における、他の命を奪い自分が生きることのやるせない切ないジレンマの呵責から、解放される理屈が

   見つかりました。 「Shock 他 喰う」からの解放

 

2,因果応報の披露聡秘

              今ある自分は、原因である過去世の結果です。生まれ変わり、輪廻転生のからくりが解りました。

 

 

 無限・循環の披露聡秘によって、1の食のからくりが解明されます。

食の披露聡秘によるからくり解明によって、宇宙、物質の極微の四つのエネルギーの存在、生成消滅のレベルから、人間が動物の肉を食べるレベルまで、その状況が合理的に肯定されるのです。

 

 極微の究極の存在物も、エネルギーの代謝をしています。人間のレベルで云えば「喰い、喰われ」の現象です。人間のレベルほど高等でなくても、生物の世界では「喰い喰われ」の現象です。

 その現象は、物質世界では、感情的、情緒的な感覚はなく、ただひたすらに、エネルギーの生成消滅の繰り返しです。それも、極端に短い時間の中での出来事です。悲しいとか、喰ってしまって可哀想とかの感情にひったっているヒマなどありません。

 物質レベルでのエネルギー代謝での、感覚は「スムーズに流れるか、衝突するか、押されるか、引っ張られるか」という至って、物理的な現象としての反応でしかありません。しかし、そこには何らかの「エネルギーの変化」の反応があります。それは、結果として、発熱現象、あるいは発電現象とかを生じさせるでしょう。その現象は、人間のレベルで云う感情的な複雑な感覚はないと考えます。

 

 また、同じ物質の集団は個々の区別感覚はほとんどなく、集団は全体的に均一の存在物として反応するでしょう。

 

 物質の構造などが複雑になるに従って、喰う喰われの現象や反応はそれなりに複雑多様にはなるでしょうが、物質レベルのうちは生物のようなものではないと考えられます。しかし、如何に極微の物質とは云っても、その物質の存在を邪魔したり、動きを束縛したり、抹消したりしようとされれば、その動きに対して、何らかの反応がおきることは疑い得ないし、無意味な反応として簡単に処理されるべきものでもないでしょう。単純な物理現象ではあっても、その後の生物的感覚に通じる現象として、考察すべきものと考えます。

 

 さて、生物レベルになると、喰う喰われの現象は多くの場合「生死」の現象になり、そこには、多様な生物的生存に不随する多様な感覚を生じているものと思われます。自分の存在を否定するような外的刺激に対しては、逃げる、抵抗する、攻撃するなどの行動を起こすでしょう。そして、その行動は自分の延命行動ということになりますが、これも、原始的単純な生物は、個々の存在感は希薄であり、集団的な存在として反応するものと考えられます。

 

生物のレベルでの生死の感覚は、高等な生物になるにしたがって、複雑多様になると考えられます。昆虫や魚類でも、自分の卵や子孫を必死に守ろうとする現象が覧られます。爬虫類、鳥類、哺乳類、に進化するに従ってさらに、生き死にに対する、感覚、感情などが発達し複雑になり、強くなって行くように思います。

 

 たとえば、鶴のつがいでは、オスが亡くなると雌はそのことに影響をうけて、悲しむ様な行動が覧られ長期間観察されるし、オオカミなどのボスは伴侶となっている雌が危険にさらされると、自分の命をかけて守ろうとするようです。

 

 されることを予感すると、牛や馬や、豚はそれぞれに表情に違いはあっても、それぞれ感情的な反応をすることが知られています。

 

 

 人間が、生きるために他の物質、生物を食べることは避けられません。仙人はカスミで生きていけるようですが、それは修行の結果であり、基本的には、他の物の犠牲や死によって自分が活かされることになっています。

 他の生物の死によってのみ自分が生きられるのではない、生きものの殺生によらなくても人は生きていけるという事実もありますから、人間の場合、究極的には個人の意志によっては、生物の命の犠牲なく、自分が生きていくということも可能なのです。

 

命を維持する仕組み、生き続けるための仕組みには必ずしも「他の命の犠牲」は必要なのではありません。しかし、エネルギーの代謝は必要です。一般的に、動物の消化器は、他の生きものを消化、同化する装置ですが、究極的にはエネルギーを直接とりこむことが可能なようです。

 

いずれにしても、他の生きものの命を犠牲にして自分が生きていくという仕組みが厳然として存在しています。

 

そして、人間に、他を思いやる「慈悲の仏性」が覚醒すると、殺生して自分が生きることの矛盾、呵責に悩まされることになります。その結果、修行によりいわゆる生き物を食べずに生きながらえる「木喰」生活に入って行きます。

 

さて、命の維持のための食事ですが、物質レベルでも、エネルギーの代謝作用が必要不可欠であり、人間も生きながらえるためには、エネルギーの代謝が必要不可欠です。人間はその際の「殺生」をできるなら避けたいと思ってしまうのです。

人間性が高まって仏性がつのれば募るほどその慈悲のこころ、愛念は高まります。しかし、一般のレベルの人間の食事感覚では、動物の摂食の欲望を制御できません。

 

つづく


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