世なおし倶楽部

①ことば遊びから哲学へ②安全な国産の農産物等の生産、流通③人に健康社会に平和④地球環境とエネルギー⑤矛盾の活用

カネは環境疲弊・エネルギー消費の代償

2009-01-06 00:17:50 | 哲学/ヨガ/芸術/宗教/政治経済
20090105
夜のTV番組で、海外の現地の子供達に日本を紹介する番組をやっていた。さすがに日本のわびさびの精神世界の紹介では無かったが、寿司と一緒にわさびは紹介されていた。他にはハイテクの産業技術が中心に紹介されていた。ユニークなロボットもあって外国の子供ばかりでなく日本人自身にも、自国の再認識になった。

技術とその結果事実には「オセンチな人道的、任侠、法律的責任」を問うことはできない。技術を無心に開発し無心に実行する職人は純粋なお人好しが多いように思う。平和的活用を前提にする技術はそれだけなら、中立のものであるが、悪いヤツ、敵対するヤツを処分するのは正当な行為と考える「者」の手でその技術が行使されると、中立ではなくなる。特殊な武器に限らず、その気になればどんなものでも非人道的武器になり得る。

つくづく思うのは、「使い方」である

目先の現象の世界についての価値判断や評論は「現実的ルール」を適用しよう。
深く原理的宇宙規模、環境問題についての善し悪し価値判断や評論は、真の哲学判断が必要。
時代によってもものごとの価値基準は違う。どういうふうに判断すれば合理的な判断ができるのか。

どんな場合でも、いつの時代にも通用する普遍的な方策はあるのか・・・
あるあるある

その原理とは

① すべてオーケーということ
② 他人・環境に迷惑かけないように努力すること(謙虚さ)
③ 自分に都合のよいこと。気分のよいこと
以上の条件を総合するなら、間違った判断は生じない、はずだ・・・と思う

突然、景気の話だが、地球規模の天変地異で、すべての生き物が生きることが大変だというので無い限り、まじめに大騒ぎするのはどこか嘘くさい。
最低限の寝食で納得するなら、不景気の基準はぐっと下がって、現在の不景気などまだまだ余裕だろう。
寝食に困っているひとは、堂々と「生存権」を行使しよう。
海・川で魚を漁り、山野で草、木の実を採り、獣を獲って喰って生きよう。
採集、狩猟の技術の無いものは「みんなの力」を借りてとりあえず生きるのだ

金融経済、マネーゲームで金銭的財を成した人、マスビジネスで雪だるま式財テクを成した人を世間一般では「成功者」と呼ぶ。確かに一面では成し遂げた事実は事実である。しかし、人が「マスプロダクション」で財を成したそのウラには、野生自然の営みに対してアンバランスな「環境破壊」「エネルギーの消耗」があることを忘れてはならない。

財=金額数字は「エネルギーの変形」である。

このことを考えると、財を成し、蓄えていることは決して安寧な状態ではないのである
得たものを「失う 盗まれる」恐怖などという低レベルの話ではない! 環境哲学の問題だ

数兆円、数兆ドルの資産を作った天才的ビジネスマンが地球上に何人かいるようだが
その金額の分だけ「環境負荷」「エネルギーの消耗」を背負っていることを忘れているようだ。
にわか小金持ちのお笑いタレントが、焼き肉を旨そうに食べている姿は憎めないが、何とも寂しい

庶民一人一人の責任は軽い

しかし、それ相応にツケ、責任は負わねばならない

責任を果たすというのは「命がけ」ということ。庶民にも「一人一つの命」の責任は果たせる

人間なら、一つの命にプラス「社会的責任」を自覚したい。

地球、宇宙は丸い。裏表がある。遊びの余裕がある。
ぎちぎちの状態で生きているわけではないという直感がある。

いろいろな生活スタイルがあってもよいと思う。
しかし、地球・自然のキャパシティを越えてはならない
原発やハイテク、コンピュータ時代の到来は、バーチャル金融システムとの共犯でエネルギーのアンバランス
を生じさせ急速に快適環境を破壊しつつある。

一生懸命働いて稼いだカネは「自然環境の傷」の代償であることに気づかない人間は
「人面猿」にも劣る。猿に申し訳ない。

稼いだカネが「個人のもの」と勝手に思い込んでいる成功者はほんとうに成功者なのだろうか

少なくとも哲学の視点からはそうは思えない。

大いに稼いで後、自然・社会・環境に還元してはじめて、成功物語は完結するのに・・・

この理に合わないことが続くなら、世界は早晩崩れるだろう

このようなことにさっさと気づいて、大きな声でアピールし世の立て直しを実行するのが
政治家と思って悶々いらいらする今日この頃

因みに、悶々いらいらは哲学者の領分だ

有象無象の庶民は不景気不景気といいながら肉を食う

哲学的庶民は農的生活の尊さに目覚める

妄信せず疑わず自分の判断力で





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