優しさの連鎖

いじめの連鎖、って嫌な言葉ですよね。
だから私は、優しさの連鎖。

十月の末

2019-10-05 10:21:47 | 日記
「十月の末」は宮沢賢治の小品。田舎の村の子供を通した日常が描かれている。

賢治は自分の詩のことも、友人(森佐一)に宛てた手紙に
「これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません」
と書いているように心象スケッチという言葉を使っていた。

そんなことから「十月の末」も村童スケッチなんて言われたりする。
ドラマチックな出来事が起こるわけでも無く、田舎の幼い子供の一日の出来事が描写されているのだが、それでも大学の偉い先生が読むと「近代国家の中の地方の運命」などという難しい評論になったりするから面白い。まぁ、私はそんな難しい話はさておき、今月の「賢治童話の会」の当番なのでじっくり読んでみた。すると今まで気が付かなかったところに面白さを発見し、賢治の童話を子供の時に読んだ人は大人になってからもう一度読んでみたらまた新たに楽しめるのではないかと思った。
たとえばこの話。母親と祖母が「酔ったぐれの爺さん」のことを話しているのを聞いた幼い子供が近所の友達に、自分のとこの「酔ったぐれの爺さん」と友達の家の「酔ったぐれでない爺さん」を取り換えっこしないかと持ち掛けるのだが。
ウンというくらい耳を引っ張られて見ると、おじいさんが章魚のような赤い顔をして「なにしたど。爺んご取っ換えるど」と上から見下ろしており、取っ換えないから許してと謝る場面。思わず笑みがこぼれるようなそんな描写や賢治独特のオノマトペの表現なども楽しめる作品である。

「十月の末」では夜になって突然「ガタァッという音がして家はぐらぐらっとゆれ」雷が鳴り「氷砂糖を振りまいたよう」な雹が降る。
今年は十月といっても昨日は気温が三十度近くまで上昇したが今日は十度も低くなった。またインフルエンザの流行の話も身近なところから聞いた。季節の感覚がよくわからなくなっている。でもさっき、親せきから新米が送られてきた。季節は秋。実りの秋十月である。十月の末にはここでも雹が降り季節は冬へと向かっていくであろう。