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国分寺跡 3

薬師堂には平安時代末頃の作とされる木造薬師如来坐像(重要文化財指定)が安置されている。
開帳は例年10月10日だが、なかなかこの日に合わせて行くことはむずかしい。
寄木造り。座高は2メートル弱。
鎌倉時代末期に、分倍河原の戦で敗れた新田義貞が放った火で
武蔵国分寺が焼失したが、この仏像は難を逃れた。
寺の縁起には、自ら逃げ出して無事だったと記されているという。
オイオイ、仏像が逃げ出したのか、たぶん裸足やろうなあ。
その後、その新田義貞が金堂跡付近に薬師堂を寄進し、この仏を安置した。
現在の薬師堂は江戸時代中期に再建されたもの。
仁王門も合わせて建てらてたが、その木材の一部は、
新田義貞寄進の薬師堂のものが使用されているという。 

日光、月光菩薩(室町時代作)を脇侍に、薬師三尊の形をとり、眷属 として十二神将を従える。
※十二神将は、その頭部の墨書から江戸時代元禄2(1689)年の作とされる。

この新田義貞の件を調べていて〈分倍河原〉という地名が気になった。
最近所用でよく行く京王線の南大沢への途中にこの名前の駅がある。
なんと読むのかわからずに、駅を通過するときに駅名板に目をこらしたのだった。
〈ぶばいがわら〉と読む。

分倍河原駅は京王線とJR東日本の南武線が乗り入れている。住所としては東京都府中市片町二丁目になる。

〈分倍河原の戦〉とは
鎌倉時代後期の元弘3(1333)年5月15日・5月16日に、武蔵国多摩川河畔の分倍河原(現在の東京都府中市)において、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である
この〈鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢の戦い〉の背景と経過を読むと、
関東の地での戦いであるから当然だが、いくつもの知った地名が登場しておもしろい。

(新田軍は)5月9日、利根川を越えたところで足利高氏(後に尊氏)の嫡子・千寿王(後の足利義詮)が紀五左衛門に伴われて合流、この後上野、下野、上総、常陸、武蔵の鎌倉幕府に不満を持った武士たちが次々と集まり、新田軍は20万7千まで膨れ上がったとも言われる〉

さらに新田軍は鎌倉街道沿いに南下し、入間川を渡る。迎撃に来た桜田貞国率いる3万の鎌倉幕府軍を5月11日に小手指原の戦いで、5月12日に久米川の戦いで相次いで撃破。幕府軍は、武蔵国の最後の要害である多摩川で新田軍を食い止めるべく、分倍河原(現在の東京都府中市)に撤退した

鎌倉幕府は小手指原・久米川の敗報に接し新田義貞討伐に本腰を入れ、新田軍を迎え撃つべく北条高時の弟北条泰家を大将とする総勢15万の大軍を急遽派遣し、分倍河原にて桜田貞国の軍勢と合流させた。一方で新田義貞は、幕府軍に大軍の増援が加わったことを知らずにいた

5月15日、2日間の休息を終えた新田軍1万は分倍河原の幕府軍への総攻撃を開始。だが援軍を得て士気の高まっていた15万の幕府軍に迎撃され全滅状態になり、堀兼(狭山市堀兼)まで敗走した。本陣が崩れかかる程の危機に瀕し、義貞は自ら手勢600騎を率いて幕府軍の横腹を突いて血路を開き辛うじて脱出した

身近に知っている地名、あるいは住んだことがある地名とは
〈鎌倉街道〉〈入間川〉〈小手指原〉〈久米川〉〈多摩川〉〈狭山市堀兼〉などである。

まあ、鎌倉時代から登場した武家勢力の権力闘争であるから、庶民はいい迷惑だっただろう。

武蔵国分寺薬師堂から、ずいぶんと話がそれてしまった。

〈続く〉

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