薬師堂の隣が本堂になる。
ここには万葉植物園が併設されているが、
この時期は、ほとんどの植物が枯れていて、
白い名札ばかりが目立って見るべきものは少ない。
武蔵国分寺本堂。
万葉植物園。
薬師堂と本堂が武蔵国分寺になるわけだが、
この寺は国内各地に建立された国分寺のうち、
武蔵国国分寺の後継寺院にあたる。
つまり、奈良時代から残る寺ではない。
医王山縁起によれば、国分寺境内の薬師堂は、
建武2(1335)年、新田義貞の寄進により、
武蔵国分寺史跡の金堂跡付近に建立されたと伝えられている。
現在の薬師堂は宝暦年間(1751年から1764年)に今の場所に移され、建て替えられた。
元々の武蔵国分寺はこの寺の南に大きく広がる寺院であった。
当時の建造物は、もちろん残ってはいない。
発掘調査により膨大な遺物が出てきているが、
それらから推測される武蔵国分寺の姿は下の絵のようになる。
〈本史跡は、かつて武蔵国に置かれた国分寺および国分尼寺の跡地である。尼寺区域は調査が終わっており歴史公園として整備されている。一方僧寺区域は整備事業の一環で発掘調査中である。史跡指定範囲は時代が下るごとに広がり、現在は11haにおよんでいる(東山道武蔵路を含まず)。なお、推定される寺域は国分寺跡・国分尼寺跡を合わせて、僧寺金堂を中心に東西1500m、南北1000mの範囲におよぶとみられる。国分寺崖線の南側すぐの位置にあり、かつては東山道武蔵路を挟む形で東側には武蔵国分寺、西側には武蔵国分尼寺が立地していた[1]。現在は、両寺院の間を府中街道(埼玉県道・東京都道17号所沢府中線)とJR武蔵野線が横切っている〉
また、現・国分寺の正面にある楼門は
〈国分寺境内にあり、前沢村(現東久留米市内)の米津寺(米津出羽守田盛によって菩提寺として創建された寺)の楼門を1895(明治28)年に移築された〉
〈建物は間口三間(約6.2㍍)奥行二間(約3.7㍍)の楼門を造り、板金葺で、江戸時代の建築様式を良くとどめている〉
との資料はあるものの、創建の年はわからない。
なかなかりっぱな門である。
二階には十六羅漢像(現在13体)を安置しているとのことだが、
見ることはできなかった。