散歩と俳句。ときどき料理と映画。

古美術店

近所の総武線のガードのすぐ下に古美術店ができたのは、 九年ほど前のことである。店が開いているのは週のうち三日ほどだ。ときには一か月近くシャッターが下りていることもある。
開いている時もシャッターは上三分の一ほど下がっており、やる気があるのかないのか、不思議な店である。客が入っているのを見たことがない。ガラス越しに店内を覗くと、手前には備前と思われる大壺が三つと、小さな壺が五つほど並び、壁面の棚には数点の焼き物が飾ってあるだけ。

店主と思われる四十代の男が奥の椅子に腰掛けている。ある日私は思い切って店に入ることにした。
男に「見せてもらってもいいですか」と声をかける。男は「あ、どうぞ。大したものはありませんが」と答える。たしかに大したものは並んではいない。棚に並べられた器もそれほどよいものとは思えない。骨董市でよく見かける、大皿や蕎麦猪口の類が無造作に置かれている。
男に「このお店はけっこう閉まっていることが多いですよね」と話しかけた。男は「私ひとりだからね、買い付けに行くと閉めるしかないもんで」と言いながら、足元のトランクを指差して、「明日からまた韓国に買い付けに行くんで、しばらく店はやすみますけどね」と呟くように喋る。
韓国に買い出しに行くといっても、店内には韓国の骨董品らしきものはなにもない。買い付けた品物は、おそらく店で売るのではなく、市でさばかれるのだろう。
そのあたりのことは村田喜代子の小説「人が見たら蛙になれ」で読んだくらいで、詳しくは知らない。たとえば古書店でも、店頭での販売よりも市での商いの方が大きいのではないだろうか。
毎日のように店の前を通るのだは、ガラス戸越しに覗く店内の品物は入れ替えもなく、ずっとそのままである。

写真は店の外に置かれている木の臼。古美術ではなく民芸品であろうが、雨風に曝されていい具合に古びている。しかしこれを欲しいとは思わない。広い庭でもあれば小鳥の水飲み場として置いてもいいだろうが、都会のマンションのベランダではどうしようもない。

店が閉まっているときも、この臼は店の前に置かれたままである。誰もこんなものを盗んだりするはずがないと、店主が判断したのだろう。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「骨董」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事