1956年生まれの須永紀子の7作目となるこの詩集。年代的には55年生まれの伊藤比呂美と同年代と言えますが内容的には具体的な生活感もあからさまな性的な描写も殆ど見受けられません。
あるのは飛び立つことへの試行を繰返す魂のせつなさです。決して飛び立てない、飛び立とうとしない、それでいて、それさえも苦痛、心の叫びとはならず淡々としていて読むものに苛立ちをも感じさせます。
詩篇の展開は地方都市(たぶん、都心よりさほど遠くない八王子近郊辺りかなと推測します)を舞台として展開しています。
男との出会い(ワタル「ワタル」、M「シカゴの耳」、役場の窓口の男「新しい日々Ⅱ」、Y「ホームにて」も語られていますが、それぞれの男には実在感が乏しく、すれ違った一つの風景として語られています。
悲観的でもなく、否定的でもなく、ひたすらに水耕栽培の観葉植物のような日常を綴ることによって明日をつなぎとめようとする。そんな思いを詩篇より感じます。
日常を否定するのでもなく、淡々と繰返す日々を綴るとき、この詩集のような表現となるのかも知れません。
あるのは飛び立つことへの試行を繰返す魂のせつなさです。決して飛び立てない、飛び立とうとしない、それでいて、それさえも苦痛、心の叫びとはならず淡々としていて読むものに苛立ちをも感じさせます。
詩篇の展開は地方都市(たぶん、都心よりさほど遠くない八王子近郊辺りかなと推測します)を舞台として展開しています。
男との出会い(ワタル「ワタル」、M「シカゴの耳」、役場の窓口の男「新しい日々Ⅱ」、Y「ホームにて」も語られていますが、それぞれの男には実在感が乏しく、すれ違った一つの風景として語られています。
悲観的でもなく、否定的でもなく、ひたすらに水耕栽培の観葉植物のような日常を綴ることによって明日をつなぎとめようとする。そんな思いを詩篇より感じます。
日常を否定するのでもなく、淡々と繰返す日々を綴るとき、この詩集のような表現となるのかも知れません。